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この作品についても、以前に書いたものからまず引用したい。 フィルム・メーカーズ 1968-69年。16ミリ・カラー。映画作家たちのポートレート。スタン・ブラッケイジ。スタン・ヴァンダービーク、ジャツク・スミス。ジョナス・メカス。アンディ・ウォーホル。タカヒコ・イイムラ。 - アメリカで出会った映画作家たち。それぞれ各作家の代表的な手法を「借りる」ことで、たとえば、メカスをコマ撮りすることで、そのヴィヴィッドな人物像を、ウォーホルの映画を撮りっ放しにして、その無個性の表情をとらえた。 (飯村隆彦著「映像実験のために」青土社、1986年、40頁)
この作品の制作過程は、まず各作家について (最後の作家自身を除いて)、各200フィート (5分)づつ、無編集の撮影フッテージから構成されており、撮影の際のカメラによる「編集」はあるものの、通常の撮影後の編集はない。これは、最初から、そのようなものとして、カメラによる現場記録をそのまま提出することから成立している。 その現場記録も、ほとんどの場合、ファインダーを覗かずに、大体の露出とフォーカスをきめて撮影されている。これは、ファインダーを覗くことで、作家がカメラの背後に隠れることを防ぐために、むしろ作家も一人の個人として、対象と対面し、対話することを心がけたものだ。カメラマンであるまえに、一人の作家として、対象であるもう一人の作家と、コミュニケートすることの方が、はるかに重要であると考えた。その記録が、フィルムとして残される。したがって、通常の撮映者と被撮影者の関係ではなく、一人の対等な映画作家として、あるいは友人として訪問し、単に映画作家のみならず、その環境を含めて、記録する。撮影する本人も、その環境の一部として、(時には、メカスの場合のように、相手にカメラを渡して、対象のひとつとして撮影された)構成される。 このような基本的な考えで、各フィルム・メーカーをカメラをもって訪れた結果が作品となった。ここで各作家毎に、当時の状況を見い出してみよう。 (音は編集後に画面上のその瞬間毎の対象を単語によって言語化した「コメント」が加わっている。) スタン・ブラッケイジ ブラッケイジについてはアメリカに行く前から、その伝説的な面影と共に、一度は尋ねて見たいと思っていた。60年代初期に、日本に来たアメリカ人から、彼の「ソングス」シリーズの8ミリを東京で見て、影響を受けていた。そのすばらしいイメージの流れるような自由な表現に眼の醒める思いがしたものだ。ニューヨークに行ってからも、彼の個展がシネマテークである度に、足繁く通った。「ソングス」以外にも、数多くの、しかも多様な作品があって、しかも間違いなく、ひとつのブラッケイジ・スタイルを作り出している。それは、美術の用語を使えば、抽象表現主義であり、絵画のジャクソン・ポロックにも比較しうるアートの上での表現革命を行っている。残念ながらポロックと同様な評価を、アートの歴史でも、映画の歴史でも得ていないが、実験映画というマイナーなジャンルのせいである。 ブラッケイジは、コロラドの山中に、木造の一軒家に住んでいて、私が行った1968年には、(今では別れた)妻のジェーン(しばしば彼の映画に登場する)やまだ小さな子供たちと一緒に住んでいた。彼は会うと私の「LOVE」を見ていて絶賛し、彼の家でも再度上映した。二階に編集室とスクリーンがあって窓からは林や山が見えた。 私はそういう環境の断片を、やはりファインダーを覗かずに任意に撮影した。編集室のフィルムから、窓、林、山、草、子ども、それに彼が養っていたロバや、犬までも。それらは全て、彼の映画の中で、見慣れた風景であった。 ブラッケイジに関しては、特にどの手法と限定することは困難であったが、彼の周囲のイメージの世界のディテールを任意につなげていくことで、その一端を示すことが出来ればと考えた。 私にとって、この映画の中で、後のジャック・スミスの顔と、ブラッケイジの顔のクローズ・アップが、最も迫真的な肖像として見える。それは私を送るために彼がドライブする顔を隣の座席の至近距離から撮影したものであった。
スタン・ヴァンダービーク 今では、アメリカの前衛映画界でも、その名前を忘れられているスタン・ヴァンダービークは、当時、流行したエンバイラメンタル・シネマの代表作家であった。日本では環境アートが、エコロジーの流行と共に、現在でも花形的な存在であるが、アメリカでは環境アートは60年代以来復活したことはない。それはエコロジーへの無関心というより、そのような運動と個々の作品とが混同されることはないということだ。 ヴァダービークが、手作りで創造した直径20メートルはある巨大なムービー・ドロームは、その後のエクスポでの流行を先取りした先駆的な作品であった。しかしそれも今となっては、大きな廃虚となっている。 私は丁度、1966年にニューヨーク・フィルム・フェスティバルが、そのエクスカーションのひとつに、そのヴァンダービークのムービー・ドロームへのバス旅行に同乗したのがきっかけであった。 半球型のドロームの内側の壁に、数台の16ミリ映写機を手作業で同じに映写しながら、半球型スクリーンをイメージでうめた。その操作はプリミティブであったが、半球体イメージという見果てぬ夢を追うものであった。 私はドロームの内と外とを同時に二重撮影しながら、それが、彼の頭の半球にダブル・イメージされるものであった。 また、彼のスタジオを訪ねて、ヴァンダービークを含め周囲の人々と、室内と窓から広がる風景を含めて、旋回する360度のパンを繰り返すことで、彼の半球型スクリーンと似た、エンバイラメンタルな光景を一面スクリーンで実現した。 すでにヴァンダービーク自身も他界して、彼のイノベーションも伝統的な一面スクリーンでは不可能とあって、見る影もないが、その夢の一端はこのポートレートの中に残されている。 ジャック・スミス すでに4年前(1989年)、エイズで死亡して、その伝説が、再び甦りつつあるジャック・スミス。その数少ない残された作品のうち、「燃え上がる生物」(フレーミング・クリーチャー)が、近年欧米で上映されて、再評価されてきた。私が始めてジャック・スミスと会ったのは、ソーホーがまだ有名になる以前の1968年に、グランド・ストリートの二階吹き抜け(というより撮影のため二階の床を半分落としたもの)の巨大なロフトで、彼自身が上映した、同じ作品の上映会であった。 しかし手持ちのプリントはすでにパーフォレーションがずたずたで、度々映写を中止して上映した。その断続的な上映会はそのせいか、巨大な闇となったロフト空間をロフト空間を浮き上がらせた。 それから、何回か彼のロフトには立ち寄ることがあったが、それが彼のスライド/パフォーマンスの上映会であったが、他の機会であったかはともかく、物事が順調に運んだことはなかった。これはロフト上映会に限らず、既定の上演料を徴収する映画会場の上映会ですら、観客はしばしば、時には何時間も待たされることがあった。 一度は、映画の上映であり編集用のバスケットに、フィルム断片をつめ込んで、会場に現われ、そのひとつづつの断片を、スライドのように、映写機にかけては上映する、それも何分か何十分か、選択するために時間がかかるものであった。ジャックに撮ってみれば、缶詰めのように一本のつながったフィルム=プリントは存在せず、毎回、毎回が異なるフィルム/パフォーマンスが、彼にとっての映画であった。 私がある時、グランド・ストリートのロフトにカメラをもって訪れた時、ジャックは彼の撮影用のセットの制作中であった。丁度、日本のひな壇のように、階段状のセットには無数の小物ーその多くは貝や、人形や、石ころや、かにの手や、古ぼけた絵画など、彼が集めてきた輝くばかりのガラクタで出来上がっていた。 それは彼のハーレムであり、小宇宙であった。私はジャックにことわって撮影を始めたものの、彼にとって私は乱入者であり、侵略者であった。自分の撮影のために制作中のセットを、この男は横取りしている! それでも気の優しい男であるジャックはその蚊のなくような小さな声で、「僕のためにも残しておいてくれ」と言うのがせい一杯であった。 レンズに近づき拡大されたイメージで見る小物に触れるジャックの手先はふるえていた。指の先端から、小さなくさりがたれて、貝をしばりつけようとしていた。その意外にデリケートな指先の動き。 私はこの時も、ほとんど、ファインダーを覗かずに撮影していたから、時々このポートレートは、例えば、ジャックの頭をカットして、身体のみを捉えた。この時ばかりは、カメラを覗かないことが、私の顔がジャックの顔を見ていることで、イメージ・ドロボーの非難をまぬがれるように思えた。
ジョナス・メカス メカスとの出会いは、私自身よりも作品の「LOVE」の方がオノ・ヨーコによって紹介され、彼のビレッジ・ヴォイス紙のコラムに絶賛されることの方が先であった。私は、無名の東洋の作家の一作品を称賛するメカスの大胆さの方にむしろ驚いた。これは後で分かったが、作品のバックグラウンドよりも、作品の評価に徹する彼の批評態度から生まれている。 初めて会ったのは、1966年に、タイムス・スクエアのそばにあったシネマテークのディレクター(同時にもぎりでもあった)であった彼を訪ねて、私の個展を開いた時であった。私はアガッて、ろくに会話も出来なかったが彼の神経質な、それでいてシャイなスマイルを見た時には、安心した。 それからメカスとは何度も会ったが、シネマテークや彼のロフトに招かれて、しかし、私には常にうちとけにくい神経がはりつめていた。 公人(パブリック・マン)としてのメカスは、シネマテークの設立者であり、実験映画誌「フィルム・カルチャー」の編集長であり、配給組織・フィルムメーカーズ・コオペレティブの組織者であり、ビレッジ・ボイス紙の批評家であるという、実験映画の実務から批評にいたる多様な面のリーダーであった。 まさに実験映画というより前衛映画のルネッサンスを背負った、一時、ニューヨーク・タイムスがヤユしたジーザス・メカスであった。一方、プライベートなフィルム・メーカーとしてのメカスは常にカメラを持ち歩く、タフで同時にシャイな詩人であった。 私のこのポートレートは、当時、アンダーグラウンドの有名人が、長期住人となっていたチェルシー・ホテルの彼の一室で行われた。それは同時にインタビューを兼ねたもので、後に「映画評論」誌に発表されたが、ここでは彼の言葉はなく(私の「コメント」が代りに録音されている)、表情のみがクローズ・アップされている。この表情と動作ーそれはメカスの映画手法を取り入れて、多くをコマ撮りしているーに特徴的に現れているように、きわめて過敏な動きと、変化に満ちている。時に神経質に、時にリラックスする、特に最後のシーンではアコーディオンをとり出して、古いリトアニアの民謡を歌った時には、農民の息子の側面が躍如している。 彼はインタビューの途中、「私にも撮らせろ」といって、私(と昭子)をやはりコマ撮りした。この作家魂には、私も脱帽した。 メカスはまた、私達のために、リトアニア語の詩を読んでくれた。私にはその意味は分からなかったが、一行一行を念を押すように、しかも明快に読んだ。
アンディ・ウォーホル この映画作家たちのシリーズのうちで、直接作家に会わなかったのはウォーホル一人である。これは会うことが不可能だったわけではなかったが、ウォーホル自身が公に語った言葉によっている。それは 「私の背後には何もない。私の全ては私の絵画と映画の表面の上にある」 という言葉である。 私は本人に会うよりも、その「表面」である映画と絵画を記録することで語らせようと考えた。 当時、ニューヨークのシネマテークで彼の「チェルシー・ガールズ」が大当たりをして、アンダーグラウンド・シネマとしては異常なロングランを行っていた。私はすでに見たこの作品と「出会う」ために、カメラをもって、シネマテークに出かけた。「チェルシー・ガールズ」は、メカスのところでも触れたように、当時流行のホテルで、アンダーグラウンドのアーティストやその卵、グルーピーがたむろし、ドラッグ文化と共にその「悪名」を聞かせたチェルシー・ホテルが舞台。ウォーホルは、そのホテルのいくつかの部屋にカメラを持ち込んで、撮りっぱなしの手法で、彼らの生態を記録した。しかし通常の記録映画とは異なって、「役者」たちは、自由に、「演技」し、記録ともフィクションともつかない生態を突き放すように描いた。そこでは、ケンカと、怒号と、遊びと、孤独とが同居して、演技の記録と、記録することの演技とが、競合する。ハリウッドのシステム化した演技とは全く異なる、アナーキーな演技が、カメラワークのアナーキーによって倍加している。 撮りっぱなし撮影とはいえ、単なる額ぶちショットの固定カメラに止まらずに、人物へのズーミングが何もないズーミングとの同等に扱われるといった無差別で無意味なカメラワークがある。 私はこの「チェルシー・ガールズ」を劇場の側面の通路から、斜めに、しかも任意に撮りながら、やはり無意味なズーミングを繰り返すことで、彼の手法を「借用」(アプロプリエート)した。当時はまだアプロプリエーションなどという言葉が、芸術用語として使用されていなかったから、私もその言葉を自覚していたわけではないが、実際には同じことだった。 私のポートレートでは「チェルシー・ガールズ」のイメージは、わずか、2、3秒から5、6秒程度の瞬間的に現われるイメージが多く、その間の闇には、ウォーホルの絵画(版画)から、指を顔の手前にかかげた有名なセルフ・ポートレートのイメージが、やはり間をおいて現れる。これら、ウォーホルの作品からのイメージが「背後に何もない」ウォーホルの自画像となっている。 このセクションに関して、ウォーホルの不在は、それがウォーホルのイメージでとり代えられることによってより一層きわだっている。 サウンド・トラックもまた、「アンディ・ウォーホル」をくり返し呼びかける。(サウンド・トラックは、映像の編集後に、映像を見ながらアフター・レコーディングされたもので、その多くが画面に見える人物やものの名を呼ぶ単語や短いフレーズによっている。したがって各作家の名前や例えば、ブラッケイジのところでは、「山」や「花」といった普通名詞が、メカスのところでは「座る」「読む」といった動詞が、全て、英語で語られる。) 飯村隆彦 セルフポートレートであるが、自分自身の顔を拡大レンズを動かして覗く。これは、私がかつて「LOVE」(1962年)で他人の裸体を、やはり拡大レンズを使用して、撮影したことから来ている。今度はそれを自分の顔を対象に撮った。 対象の違いのほかに手法上の大きな違いは、「LOVE」では、拡大レンズはカメラにとりつけられて、それ自身は見えないが、今度は、私自身がレンズを手に持って、カメラの前で動かす。したがってレンズ自身を見ることが出来る。また拡大倍率も、手に持ったレンズの位置によって、変化する。 私はレンズを目の前に持ってきて「アイー」と叫ぶ。これは「EYE」でもあれば、「I」でもある。眼は拡大されて、眼球のみが飛び出して来る。 あるいは「口」、「鼻」というように、顔面を点検する。言葉を積極的に口にすることによって、映像と言葉は同一視されながらも、両者の位相の違いを伝える。「マウス」は口といわれる対象をクローズ・アップしながらも、「マウス」と発音された時には、口の中の歯を映している。意味するもの(シグニフアイア)と意味されるもの(シグニファイド)、その位相のずれを示している。
このように、「フィルム・メーカーズ」は、私の出会った作家たちの私的な記録であると同時に、私と個々の作家とが、映像によって対話したコミュニケーションの記録である。言葉は私の方からのみ発せられているが、それは私から作家たちへの語りであると同時に、観客への語りである。それは単語のみで、文にならず、また、主語も喪失している。しかしそれは作者とフィルムメーカーたちそして観客とが共有する空間でありそこに共通する主語が考えられるのではないだろうか。 (山形国際ドキュメンタリー映画祭'93、「非記録的記録映画 私の60年代の二作品」) |