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ズーム・ショットの後、画面には次の言葉が現れる。
Are the rocks plaaced
on the ground
the islands of paradise
is the white sand the
vast ocean
that distances them
from this world
地面に置かれた
石は
シュミセンにある
島なのだろうか
白砂は
それをこの世界から
隔てている
大海なのだろうか
日本語の原詩にあるシュミセンとは須弥法山のことで、英訳ではパラダイスと意訳しているが、古代インドの世界観で須弥世界の中心にある山のことで、聖なる山を指さす。
この一連の言葉は、石庭を「大海」に浮かぶ島に見立てるメタファーがあり、これは一般に解釈されているメタファーでもある。枯山水の庭として代表的なこの石庭が、その水の不在にもかかわらず、あるいはむしろその不在によって、さらに波形の模様に整然と掃き清められた砂利敷きの形態から、このメタファーは適切である。
続いて最後の移動ショットが現れるが、広角レンズにより、広い範囲の景観があらわれる。まずは壁の背後の樹木が見え、左側の壁も見えて、前面には平行して線状の波形のある砂利が広がる。もっとも速い移動スピードにもかかわらず、広角レンズはほとんどその速度を感じさせない。
すでに2度にわたる移動で、石組みの配置については既知にもかかわらず、この最後の移動は、舟に揺られながら島々を見渡す気分に浸してくれる。廊下の一点からの観察では決して得ることの出来ないこの移動する視点は、移動が単に点の連続に止まらない、変化する眺望を与える。
石庭の15の石が、一点からでは全部を見る(数える)ことが出来ず、移動することで初めて見えるということは、庭園の作者があらかじめ移動して、この庭を見ることを想定していたのではないだろうか。
また、正面の壁が左端と右端において、中央より低くすることで全体を広く見せたいという事実は、当時の日本において、遠近法が発明されていなかったにもかかわらず、経験的に利用したことを意味している。最後の移動が広角レンズによって、肉眼以上に遠近法を強調しているが、それは石庭作者の遠近法にも倍加されて石庭を現実以上に広く見させている(写真7参照)。

写真7
このような作為的な遠近法は、むしろ壁という空間を限定する虚構によって可能となったものである。西洋の壁のない庭園の、消失点を予期させるシンメトリーな奥行きのある空間設計に比較するまでもなく、この庭園はは背面に一直線に平行する壁によって、透視面的な遠近法を拒否し、逆に虚構としての壁を設けることで、石庭をひとつの絶対的な空間として設定する。
映画は3回目の移動の後、次の言葉を呼びかける。
Breathe
Swallow this garden
Let it swallow you
Become one with it
呼吸せよ
この庭をのみこみ
のみこまれ
合一せよ
この唐突にも見える呼びかけは、単に見る位置に止まらずに、石庭と共に「呼吸」すること、その呼吸の作用として、吸う、吐くという動作を身体的な作業として「のみこみ」、「のみこまれ」という2つの行為を同時に行うという、「不可能」を命令する。もし対象との同一化がありうるとすれば、このような不可能を可能とする「合一」によって達成される。「空白を感知」することから始まるこの逆説に満ちた一連のテキストは、不可能を可能とする極めてコンセプチュアルな次元において働きかける。
映画は最後に、石庭の右端から撮られた全景でもって終わる(写真8参照)。
これはこれまでに3回にわたった移動ショットの見返し点であり、固定ショットによるフレーミングである。

写真8
IV
1995年に作品が完成されて以来、映画は、アメリカおよびヨーロッパの映画祭で、上映された。主なものをあげると、モントリオール美術映画祭、ユネスコ美術映画祭(パリ)、アメリカ国際映画/ビデオ祭などで、ユネスコ美術映画祭では、「建築賞」を受賞した。またメトロポリタン美術館(ニューヨク)、ルーブル美術館(パリ)などでの美術映画のシンポジウムには、作家もともに招待された。日本では名古屋市美術館、スタジオ200(東京)、大阪現代美術センター、日仏会館(京都)などで上映された。
主な映画評として、一例をあげる。ネディーン・コバートの編集した「アート・オン・スクリーン」という美術映画の辞典に載った批評を引用する。ここでは作品の「評価」の部分のみ。
「オリジナルで、個人的で、テーマへの厳密なアプローチがある。芸術作品の美学的な経験を伝えるものであり、哲学的な問題を視覚的なそれに融合している。むずかしいコンセプトをとりあげながら、それを探求し、視覚化している。非常に還元的で、二次元的で、単純である。写真的な単純さは、見る人に明晰さを与え、厳格で、線的なカメラの運動は、庭園の大きさを感じさせるが、同時に、その空間を平面化する。この映画の美学にはメッセージがあり、実験映画と、コンセプチュアル映画の質がある。映画自身がひとつの芸術作品である。音楽と視覚とテキストの優れたバランスがある。ある人々には、思わず誘い込まれるようなものはないとしても、他の人々にとっては、非常に有効に働きかけるものである。実際に庭園を訪問したくさせるもので、その精神的なエネルギーを経験させるものである。技術的な質も、内容も、観客へのアピールも、非常に高いものがある」。
(飯村隆彦訳)
(名古屋造形芸術大学紀要、第3号、1993年)
(「飯村隆彦のメディア・ワールド(II)」、キリンプラザ大阪、1993年、34- 39頁)
(The English translation, Millennium Film Journal No. 38 , Spring 2002: Winds From the East, The Millennium Film Workshop, New York, pp.50-63)
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