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作品ノート「間:竜安寺石庭の時/空間」
飯村隆彦

III


 今回、竜安寺石庭を採り上げるに際して、私は<間>を時間と空間の未分化な状態として考え、その不可分な状態を映像的に表現しようとした。対象は動かない石庭であり、すでに数多くの写真と映画の対象になっている。しかも、この<間>という概念を単に現実化するばかりでなく、この映画を見ることで、ある<間>の体験を得ることを考えた。通常の美術教育(紹介)映画のように、テキストの解説を例証とするのではなく映像を見ることが、ひとつの「間」の現実体験となるものである。

 それは映像が個々の対象については分節されながらも、ひとつの作品としては、トータルな体験を得るものでなければならない。このような全体を通して一貫した視覚的経験として、<移動撮影>を考えた。しかも極めてゆっくりとした移動によって、時間と空間が未分化な状態を現出しうるならば、<間>のコンセプトに相応しいものであった。ゆっくりした移動は、不動の対象に対して自ら移動することで、継続する空間であると同時に、観察者の時間の経過を示すことができる。いわば、動いているのか静止しているのか見ているとわからないが、見始めると終わりでは景観が異なっているという移動が必要なのである。あまりにも速い移動は、空間の継続性を断ち切る。しかもその移動は一定の速度で、運動に人為性の感じられないものがよい。私はそのために、移動台をコンピューターで制御することを考え、この操作によって自由に均一な移動を保つことが出来た。

 <ゆっくりとした移動>という空間と時間の同時的な変化が、<間>という時空間の未分化な状態の視覚的な経験となる-これがこの作品の主要なテーマとなった。もちろんこれは<ゆっくりした移動>が全て、<間>を経験させるものではなく、<間>を経験するために一定の時間空間において、特定の<ゆっくりした移動>という方法がとられたと言い直すべきであろう。

 作品は最初と最後の、私が「額ぶちなショット」と呼ぶ固定ショットを除いて、全てのショットが移動およびズーム・ショットにより出来ている。もちろん移動とズームでは、動いている画面ということでは同じであっても、その効果は異なる。これについては後でふれよう。

 まず最初に石庭を左端から、前景に廊下をおいて、石庭のほぼ全景が斜め位置から、固定ショットで見る(写真2参照)。これは最後の右端からのほぼ全景の固定ショットと対をなすもので、作品のフレームの役割を果たしている。いわば、フレームを置くことで、<内容>をフィクション化する試みである。かつ、全景を示す固定ショットであることによって、これから持続する移動の部分ショットに対して、パースペクティブを与える。


写真2

この固定ショットのあと、次のようなテキストが現れる(フィルムでは英語のみ、原詩の日本語を併記する)。

ma
for meditation
MA
The garden is a medium
for meditation
Perceive the blankness
Listen to the voice of the
silence
imagine the void filled



庭は瞑想のための  
装置である 空白を感知せよ
静寂の声を
 聞け
空虚の浸透を想え


 この磯崎新による言葉は<間>(MA)についての力強いメッセージとなっている。まず庭が「装置」(medium)というひとつのメディアであると同時に、環境でもある場として捉え、「空白-感知」、「静寂-声」、「空虚-浸透」という、否定と肯定とが対となる概念によって、否定の積極的な「肯定」化を図っている。これは、否定の肯定による消滅ではなく、逆に否定(ネガティブ・スペース)の存在を認めるばかりではなく、それが肯定(ポジティブ・スペース)へ、転化することなく「浸透」するという、西洋的な弁証法から考えれば、当然矛盾と考えられる「東洋的」な論理に基づいている。「ネガティヴ・スペース」という存在形態をもっている。ジョン・スティーブンスが、間について「アクティブ・アブセンス(積極的な不在)」と呼んでいるのも、けだしこのことを指していよう。
 この言葉のあと、画面は最初の移動である。大きな石の画面いっぱいのクローズ・アップより始まっている(写真3参照)。この鋭角な頂上をもつ石は全部で5つの石のグループ(石の総数は15)の左端に位置し、訪問者が、全景を見渡した後、最初に目につく石である。マッター・ホルンを想わせる頂きをもつこの石は、大きさにおいても、第5グループと同じようなスケールをもち、高さにおいては、全グループの中で飛びぬけている。  


写真3


 訪問者がこの地点から廊下を石庭に向かって左から右へ移動するように、カメラもゆっくりとクローズ・アップのまま、平行して移動する。カメラの位置は廊下に座って見た目の位置よりもやや低く、この最初の石の高さに平行している(レールは廊下に沿って廊下と石庭の間に敷かれた)。

 全部で3回、同じ長さと高さのレール上を運動した移動ショットのうち、最初の移動はもっとも望遠のレンズを使用して、画角がせまく、かつ移動のスピードが遅い。したがって第5グループの石に至るまで、もっとも時間が長くかかる。その結果、石のディテールを見せると同時に、石群の間の距離/空間を長く見せる。これは竜安寺石庭の<間>について考える時、石と石との間の視覚化である。<間>がまずは、ものとものとの間隔として考えられ、石庭空間においても、散在する石の間の空間がこのクローズ・アップのゆっくりとした移動によって顕在化する。特に望遠レンズは、奥行きを平面化して、横の間隔を強調する。そのため、石と背後の壁との距離は短縮して、壁が画面の中で大きなスペースを占め、石の見えないシーンでは、全景の砂利と壁によって上下に二分化した構図となる。このショットにおけるほど、石庭の壁がよく見えるシーンはない。

 このショットによって、私は思わぬ発見をした。それは2番目のくじら状の石の直後に、人の歩く姿(写真4参照)をしたシミが明瞭に見えることである。私のこの発見は、今まで私が読んだ竜安寺の文献の中には指摘はなく、写真でもこの頭のない<歩く人物>のみをクローズ・アップで撮ったものは見当たらない(ただし、竜安寺の発行するガイドブックの全景写真には写っている)。したがって、いつ頃からこのシミが見えるのかは定かではない。



写真4



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