メディア・アートとしての映像 -自作に関わるノート
飯村隆彦
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5.デリダの言葉によるインスタレーション
最後に、このビデオ(DVD)を利用したインスタレーション/パフォーマンスにも触れておきたい。
ひとつは神戸のアートビレッジセンター(KAVC)で行なわれたインスタレーション『見ること/聞くこと/話すこと』(2003年)でパフォーマンスも行なった。
四台のDVDのプロジェクターから、それぞれ(1)顔 (2)頭 (3)耳 (4)口 の四つの器官に分けながら、「見る」「聞く」「話す」ことが相互に持つ内容を、はじめはそれぞれ分けながら、最後には同時に、デリダの引用文とその変化形を発声することで、それらが結合することを試みた。発声する言葉も、デリダの原文における「I / He / You」を入れ替え、さらに「Hear / Speak」も入れ替え、相互に入れ替えることで主体/客体/送り手/受け手の関係を複合した。
観る者は四面のスクリーンに囲まれた内部に立って鑑賞するが、四面のスクリーンは交互に、イメージもその言葉も重なることなく、展開した。いわば観客は「私」の内部に立って、「見る/話す/聞く」の知覚が交流するのを体験することになる。そして「私」であった主体は「彼」や「あなた」の客体に転換し、また主体にもどるという運動を繰り返す。

インスタレーション『見ること/聞くこと/話すこと』(2003年)
このインスタレーションは、哲学のアイデアを視覚化するだけでなく、哲学の言葉だけでは不可能であった主/客の分化と結合を、マルチメディアによって実現することにあった。デリダの文章では自明であった「話す私」と「聞く私」の同一化が、メディアにおいては保証されないという現実から始まったものである。
展示期間中の一晩、パフォーマンスが行なわれた。四面スクリーンの裏の一面のみを使って、背後にセットを組んで、本人のライブの顔と影が交互に映り、同じ文を発声した。三面のDVD映像と一面のライブとが交錯し、音声もまた記録された音声と、ライブの音声とがミックスされた。私はもっぱら「私」を演じながら、自分の声が本人のものでありながら、メディアによって拡張されることで、他者の声にもなるという不思議な体験を味わった。「聞く」という主観的な体験も、メディアによって観客に「聞かれる」ことで自分の「聞く」体験が二重映しのように、影(分身)となってエコーする体験を味わい、思わず自分の耳を疑った。これはパフォーマーのみが体験しうる特権かもしれない。
もうひとつのインスタレーションは、パリのファッション・デザイナー、アニエスb.が経営するアネックス・スカイライン画廊で2005年に行なわれたもので、画廊の広大なロフト空間の、一面六メートルもある巨大スクリーンにDVDで上映された『Hearing / Speaking』(Quoting from Jacque Derrida )。ただし、スクリーンは表、裏二面が若干左右にズレて、四角の空間の中央を対角線上に設置された。二台の映写機が表、裏の両面から投影された。
表(おもて)面の映像は、デリダの原文を正面を向いて語る顔が映るが、ほとんど真っ黒のシルエットに近い顔で、ディティールは見えない。一方裏面のスクリーンには、背後の頭のみ、やはりシルエットに近い黒々としたイメージで映る。このスクリーンの表裏は、顔、頭の表裏に相応するのと同時に、裏面では「I」に代わって「He」の三人称で語られ、映像の背面に相応する。すなわち「彼は話すと同時に彼自身を聞く」。いわば言葉の論理である一人称と三人称とが空間の論理である正面/背面に振り分けられているが、しかし、スクリーンにはときに、正面の映像に加えて背面も現れ、その逆もまた同様である。同一人物が「私」にも「彼」にもなる言語学上の「シグニィファイ/シグニファイド」(意味するもの/意味されるもの)の相違を問題にしている。すなわち、「意味されるもの」としての映像は同一の人物でありながら、「意味するもの」としての言葉は「私」にも「彼」にもなるという通常の言語作用とは逆転した関係が作られた。
私はこの作品のビデオをかつて、1978年のパリで、引用したデリダその人に見せた。興味を示してくれた本人に再度見せたかったが、デリダはすでに存命ではなかった。
註
(1)ちなみに文化庁は「メディア芸術祭」を毎年開催し、賞を与えているが、最近の例を見ると、四つの賞のうち三つまでがアニメやマンガなどのコミック部門に集中し、しかも商業主義的な作品が多い。国策としてのアニメ振興が如実で、コンテンポラリー・アートとしてのメディア・アートはほとんど無視されている。しかも、国立の美術館までも諸外国に比してメディア・アートをまともにほとんど取り上げず、日本のビデオ・アートを含むメディア・アーティストにはほとんど公の発表の場がない。その結果、ビデオ産業国でありながら、ビデオ・アートが発表できないという外国から見ると不可解な現象がある。 (2) Jaque Derrida, Speech and Phenomena, and Other Essays on Husserl's Theory of Sign. Translated by David B Allison, copyright (C) 1973 by Northwestern University Press , Evanston, Illinois. (3)フレッド・アンダースン 『Seeing / Hearing / Speaking(見ること/聞くこと/話すこと)、飯村隆彦映像作品論集』(飯村隆彦訳、飯村隆彦映像研究所、2004年)。原文は《Leonard Digital Reviews》(インターネット、MIT Press、2003年)。 (4)同(3)。再訳に際して修正を加えた。 (5)DVD『Seeing / Hearing / Speaking』カバー裏面。飯村隆彦訳。Takahiko iimura Media Art Laboratory. 2002年
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