メディア・アートとしての映像 -自作に関わるノート
飯村隆彦
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4 「聞く」こととイメージ
次はフィルムによって『ニューヨークで語ること』(1981年)を制作したが、この作品はニューヨーク市内で8ミリカメラでロケしながら、一人称カメラでカメラマンが「私」であると同時に自身を他者によって撮影されながら、同じデリダの一文をモノローグすることで「私」のなかでのセルフ・コミュニケーションを試みたものである。ここでは英文と日本文の構文の違い(例:日本文では従属文が先にきて、主文が後になる)も明らかになる。

『ニューヨークで語ること』(1981年)
また、デリダが「沈黙の声」(サイレント・ボイス)と呼ぶ「内声」も試みられた。唇の運動があるにもかかわらず、声は聞こえないのだ。いわば、客観的に見える「話す」行為も、音を伴わない場合、聞くことがそうであるように、他者とのコミュニケーションは成立しない。主観的なセルフ・コミュニケーションとなってしまう(ただし、聴覚障害者の「読唇術」によるコミュニケーションを否定するものではない)。
デリダの一文を引用したビデオ作品は他に、ニューヨークのP.S.1でビデオとスクリプトを展示した展覧会の記録である『P.S.1で私自身に語ること』(1985年)があり、それを含む三作品と新作『見る事/聞くこと/話すこと』(2002年)を含めた同タイトルのDVDがある。
前者は展覧会場の観客との議論を含むビデオであり、後者はデリダにおける「聞くこと/話すこと」に「見ること」を加えて、三つの知覚における同時性の現象学的な作用を探求している。

『P.S.1で私自身に語ること』(1985年)
ここで、フレッド・アンダースンが新作について指摘しているひとつの疑問を紹介しよう。前述したように、「聞く」ことの不可視性についての議論がある。これについて彼はこう書く。
耳のイメージは「私が聞く」という言説とは何の関係もない。私が見ることのすべては、ひとつの耳である。聞いていることを見ることはできない。(中略)耳のイメージが口のイメージに入れ替わると、『私は私自身を聞く』という言説と口の結びつきは内的な語りとしての、聞くことのアイデアに関わる象形文字として見られるだろう。(4)
引用した文章の前半の疑問は、まさに私がこの作品を制作するときに知覚したものであり、それゆえに、耳のシーンでは「私は聞く」ばかりではなく「私は話す」という言葉も画面に現れた。さらに、口のシーンでも同様の入れ替えを行なうことで、「私は聞く」と言った話者は口の本人であるが「私は話す」と言った言葉の聴者は、イメージの耳とは限定できない。このような「聞く/話す」の知覚が、体の器官である「耳/口」と直接相応するものではなく、知覚と器官の間には明瞭なズレがあることを表したのだ。
ここで言及しておかなければばらないのは、作品の「『私は私自身を聞く』という言説と口の結びつきは内的な語りとしての、聞くことのアイデアに関わる象形文字として見られるだろう。」とアンダースンは書いているが、口のイメージはその言説を現に発声する発声源として示されており、アンダースンの言う「象形文字」としてではない。それは他のどの口でもなく、現に見える口が発声している「私は私自身を聞く」という言葉であり、その意味するところ--聞く知覚--を証明するものではない。むしろ、このギャップこそが問われているのであって、「象形文字」であれば、漢字の「口」で代替することも考えられるが、それでは発声とその意味(聞く)の矛盾を示すことにはならない。
DVDはこれらの作品の他に、二台のカメラによる撮影システムを図解するアニメーション(インターフェイス:岩島民和)、スチールをはめ込んだスクリプト、作者の作品ノートやデリダ翻訳者からの手紙のテキストなど、多様な内容を収録している。単にフィルムやビデオをストレートに変換したものにとどまらずに、アニメーションやダイアグラムによって、限界はありながらも、インタラクティブ性を持たせた。このDVDについて、フランスの哲学者ダニエル・シャルルは次のように評した。
<私は『見ること/聞くこと/話すこと』を非常に楽しんだが、これは事実、傑作だと思う。なぜならこのDVDを通して、デリダの思想との関係の理論的、知的な面を捉えることができるばかりでなく、自分のアイデンティティの(デリダ用語を使えば)「脱構築」の([デヴィッド・B・]アリソンが言う)「めまい」、すなわち抽象ではなく、感覚、前あるいは原-理論的な理解と生活、デリダの意味での「相違」や「差延」の直感を捉えることができるからだ。>(5)
すなわちこのDVDはデリダ思想の理論ばかりではなく、直感による「脱構築」や「差延」の理解が可能になると評した。
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