メディア・アートとしての映像 -自作に関わるノート
飯村隆彦

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 3 哲学の映像化

 私のこれまでの作品のなかで、ジャック・デリダの言葉を引用して制作した一連の作品について、メディア・アートの視点から問題を読み解きたい。

 デリダの言葉を引用した最初の作品は『私自身に話すこと:現象学的作用』(1978年)で、デリダの『声と現象 フッサールの記号論についての他のエッセイ』(デヴィット・アリスン英訳、1973年、(2)から一文を引用したものである。それは「私が話すことを私は同時に私自身聞く」(I hear myself at the same time that I speak)というもので、デリダが「現象学作用の本質」と呼ぶものである。この言葉をなぜ私が引用したのか。それは私がビデオ作品『セルフ・アイデンティティ』(1972-1974年)を制作していたときに、ビデオにおける「私」のアイデンティティを自らカメラに向かって「私は飯村隆彦である/ではない」と肯定文と否定文を話す、その話者のモニターにおける位置を変えることで、「私」のモニターのフレーム内とフレーム外の対話を試みたことから始まる。話者がモニターのフレーム内に存在して語る場合とフレーム外に存在して見えずに語る場合ではアイデンティティの所在がまったく異なるからである。



『私自身に話すこと:現象学的作用』(1978年)

 この場合の視覚と聴覚のズレを解明する契機を、デリダの文章は与えてくれた。デリダはこの一文で「話す私」と「聞く私」の同一化を述べているのだが、私はむしろ、メディアにおいてはその関係の非同一性を発見した。文章においては「私」という言葉は唯一であり、「語る〈私〉」も「聞く〈私〉」も同じ「私」という言葉である。それがメディアにおいて語るとき、同一のフレームに存在するならば、そのアイデンティティは保証されるが、フレーム外にあるときには、その保証はない。語る「私」と聞く「私」の間の分化が始まるのである。それは同一の「私」という言葉を使って、文としては成立しても、視覚の不在によるズレを生じる。それは、「話す」ことが客観化されるのとは異なって、「聞く」ことは極めて主観的な知覚だからである(話していることは他者からわかるが、本当に聞いているかどうかは他者からはわからない)。

 このビデオ作品は六篇から成る短いシリーズで、各作品について詳述することは避けるが、いま述べたような、フレームの内/外におけるアイデンティティの相違があり、他の一篇では、引用文を逆転させることで円環(ループ)させたものである。これは英語のみで可能なループで「I hear myself at the same time that I speak to myself at the same time that …」と繰り返し終わることなく続くもので、聞くことと話すことの言語表現では不可能な同時性をループによって達成したものである。この作品を論じたフレッド・アンダースンは「『私は話すのと同時に私自身を聞く』という句を分離して、単に『to myself』を加えるだけで、飯村はトーキング作品の基本的な素材を得た。(中略)この最低限の詩学はデリダのテキストにある未解決の問題への見通しを開いた」(3)と書いた。

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