メディア・アートとしての映像 -自作に関わるノート
飯村隆彦

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1 「メディア・アート」 の解釈

 まずは言葉の上での解釈から定めていかなければならないが、日本で呼ばれている「メディア・アート」と欧米、特にアメリカで呼ばれているメディア・アートでは、言葉の解釈に違いがある。 日本では、コンピュータを中心に、エレクトロニクスを使った、いわゆるニュー・メディアが「メディア・アート」と呼ばれ、従来の映画やビデオは必ずしも「メディア・アート」と呼ばれていない。このあたりが、欧米ではもっと広く、映画やビデオを含めて、メディアを使うアートを一般に「メディア・アート」と呼ぶのとは大きな違いである。

 むろん欧米でも、フィルムやビデオは単一に、そのメディアを対象とする場合は、あえてメディア・アートとは呼ばずに、ジャンルによって、「実験映画」であり「ビデオ・アート」である。メディア・アートとして呼ばれるのは、フィルムなりビデオが、そのメディア性を問われる場合に限られる。したがって、メディアとしてはほとんど技術的には革新の少ないフィルムはあえて、メディア・アートとして問題にされることは稀である。

 しかし、メディアの問題は技術革新に限られるものではないので、フィルムをメディア・アートから除外することはできない。特にフィルム・インスタレーションは、フィルムのなかでは新しいジャンルであり、1960年代以降「エキスパンディド・シネマ」と呼ばれる、従来の上映方式にこだわらない「拡大した」シネマの上映様式(Expoなどで行われる多面スクリーンが有名であるが、それらに留まらない多様な形態がアーティストによって行われてきた)は、フィルムそれ自身と同様に、メディア・アートの問題に深くかかわるもので、単にメディアの新しさ、古さにとどまらない多くの問題を提起し、メディア・アートの新たな発展のひとつと考えられるものだ。

 以上のことは、より一般的に展示の機会の多いビデオ・アートとそのインスタレーションにも広くあてはまるだろう。したがってここでは、日本におけるコンピュータ関連に特化したエレクトロニクスやデジタル・アートではなく、フィルムやビデオを含む、その映像に関連するものとしてメディア・アートを考えていきたい。

 おそらく日本におけるメディア・アートがコンピュータに関連するニュー・メディアに限定された背景には、西洋から導入された「メディア・アート」が、いわばひとつの様式として、歴史的に順番に、言葉としてまず輸入され、実体とはかけ離れたところで、命名されるという、明治以来繰り返されてきたモダン・アートの歴史がある。したがって、メディア・アートが包括的なメディアを前提として考えられる前に、コンピュータという新しいメディアの様式として捉えられた経緯がある(1)。そこでは例えば、ビデオとコンピュータは並行するメディアとしては考えられず、コンピュータの新しさが、ビデオに代わるものとして考えられた。事実は、ビデオはコンピュータによって広がり、深化しているのだ。

 欧米と異なって、ビデオ・アートがすでに「終わったもの」のように見なされ、メディア・アートがとって代わったかのような考え方は、極めて特殊で日本的であることは、欧米では未だに多くのビデオ・アートの展覧会が開かれ、むしろメディア・アートと名づける展覧会の方がはるかに少ないことを以てしても明らかであろう。

 ちなみに私は2006年マドリッドの国立ライナ・ソフィア美術館での「最初の世代:芸術と動く映像 1963-1986」展というビデオ・アートの初期20年あまりを特集する大規模な国際展に日本から唯一招待され、『FACE / INGS』(1974年)というビデオ・インスタレーションを展示した。この展覧会は主にビデオ・インスタレーションとテープ作品の歴史的な作品を回顧・特集するもので、ナム・ジュン・パイクやヴォルフ・フォステルの最初のビデオ・アート(1963年)から、またたく間に国際的に広がったビデオ・アートの重要な作品を網羅している。私の作品『FACE/INGS』は、1974年のパリ・国立近代美術館でのビデオ展に出品したもので、二台のカメラが距離を置いて向き合い、床面には双方向の矢印が描かれ、観客はその間に立ち、カメラを見るが、自らは後ろ姿しか見えない。言い換えれば、自分は後ろの頭のみ見えて、顔は他者によってのみ、見える。私はそこにビデオにおける「見る/見られる」関係のひとつの典型を見出した。今回はそれを壁に直接設置する監視カメラを使用することで、監視カメラが相互に監視し/される関係を結ぶことで、両者がともにキャンセルされることを明示した。いわば通常「隠された」監視カメラが現実に観客の眼前に「見える」ことで、それ自身ひとつの対象となった。 その間に介入する観客は、向かい合う2台の監視カメラの一方を自らの身体で「塞ぐ/隠す」ことで自己を明示する。--それも他者によって明示される。ここには2台のカメラの間の視覚的な弁証法がある。この関係を読みとることで、観客は監視カメラに「参加する」。記録されたインスタレーションのテープを見ると、不審そうな顔から、興味深い顔まで、多様な顔(と頭)が収録されている。この記録用のモニターも作品の一部として、2台のカメラがひとつのモニターの分割スクリーンに対面する形で配置され、観客が参照できた。

 上記は、メディア・アートとしてのビデオが、極めてパーソナルなメディアでありながら同時にパブリックになり、パブリックな体験が同時にパーソナルな体験であるという、監視カメラが表象する社会的なシステムの持つ構造を個人的な体験に置き換えることで、監視する/される構造を露呈させながら、それが生み出す個人的な体験を明らかにする試みである。


ビデオ・インスタレーション『FACE/INGS』(1974年)
(国立ライナ・ソフィア美術館、マドリッド、2007年)


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