メディアとパフォーマンス

飯村隆彦


 私は今、たまたまドイツはドルトムンドという町で行われている「エキスパンデッド・シネマ」という60年代に盛んになったフィルム・パフォーマンスの催しを見に来ている。エキスパンデッド・シネマは「拡張したシネマ」だが、映画を拡張する試みでフィルムとパフォーマンスを一緒にしたフィルム・パフォーマンスもそのひとつである。私自身60年代の初期からフィルムを使ったパフォーマンス(当時この言葉はアートの用語になっていなかったが)を行っており、1962年に東京の内科画廊で行った「フィルム・コンサート」もそのひとつである。(8ミリ映写機を楽器のように演奏の手段とし、コマ止め、逆回転、スロー映写、壁面、床面投映など行った。)

 今回のドルトムンドの催しでも1960年代―70年代(もっとも早いのは1967年のウェルナー・ネケス(ドイツ)の「Schnitte Fur Ababa」であるが)の歴史的な作品も再演されている。もっとも音楽のように楽譜があるわけではないので、毎回上演は異なる。このネケスのパフォーマンスでは、私が「フィルム・コンサート」で行ったような映写機(ネケスは16ミリ、私は8ミリ)を持って壁や床、さらに屋外(私は屋外はないが)にも投映する。5年私の方が早いが、ネケスは見ているわけではないので、偶然の一致である。他にもマルコム・レグライス(イギリス)の映写機6台を使ったマルチ・プロジェクション「Horror Film 1」(1971年)など、有名だが見る機会のなかった作品を見ることができた。このようなフィルム・パフォーマンスは極めて稀なので、わざわざニューヨークから出かけたわけである。会場では「60年代の再興」の声も聞かれたが、新しい2000年代のフィルム・パフォーマンスも行われた。決して、ビデオやデジタルによって死んだパフォーマンスの形式ではない。私はビデオやデジタルも行っているが、同時にフィルム・パフォーマンスもつづけて、毎年新しい上演も行ってきた。上演したネケスも、レグライスも初演からは30―40年たって、肉体は初老であっても、コンセプトも、パフォーマンスも今だに新鮮である。その間に多くのパフォーマンスがあり、彼等の影響も大きいが、とくにフィルムだけではなく、ビデオやコンピュータを含めたデジタル・パフォーマンスに多大の影響を与えているが、時にはオリジナルに戻って歴史を検証することが必要である。もちろん、それが出来るのも彼ら(むろん私も)が生きている限りのことである。

 日本では、フィルム・パフォーマンスはおろか、ビデオを含めてメディア・パフォーマンスがジャンルとして成立していない。パフォーマンスといえば、肉体のパフォーマンスが多く、なかでも舞踏の影響が大きい。もちろん、肉体もひとつのメディアであり、その限りでは全て、メディア・パフォーマンスといえないこともないが、ここでメディアは複製メディアを指している。私自身、初期において、土方巽の舞踏を撮る時に、自らの身体と結びついた「カメラをもったコレオグラフィ」として映画を撮り、ダンスの記録ではない、シネ・ダンスを創作している。それはメディアとダンスが結合した稀有な例である。作品としては、「あんま」(1963年)と「バラ色ダンス」(1965年)の2作のみであるが、それぞれ、8ミリカメラで本舞台のステージの上と外とで、自由に移動しながら撮影したものである。当時、生産されたばかりの小型映画カメラであればこそ可能となったものだが、私がいち早くその可能性を追求した結果である。私は最近(2001年)、未使用のフッテージを大幅に追加して完成版をそれぞれ制作して、ビデオパッケージにしたが、作品の迫力はそのビジュアルにあるので、今だにサイレントのままである。(生前の土方夫人が、土方巽に贈ったフィルムを使って、私に無断でフィルムからビデオコピーして、音楽をつけたビデオがあるが、それらは私の認めるところではない。)

 その後の私のフィルム・パフォーマンスとしては「スクリーン・プレイ」(1963年、草月ホール)や「デッド・ムービー」(1964年、東京ドイツ会館)などあり、後者は始めてループ・フィルムを使ったインスタレーションで、その後の70年代―90年代を通してのループ・フィルムによるインスタレーションの先がけとなったもの。前者は、座った人物の背広の背中に長方形のスクリーンを切り取って、肌に直接映写した。フィルムはペンキの色が溶け合った抽象映画「いろ」(1963年)であった。当時の熱い抽象表現主義の絵画を想起させる映写は肌を熱くこがした。「スクリーン・プレイ」に比べると「デッド・ムービー」ははるかに冷めたものであった。1台の映写機、それも旧式のサイレント映写機に何も映っていないクロミと呼ばれる未現像のフィルムが部屋の中を大きな輪となって廻転するループ・フィルムで、映写されるイメージではなく、廻転する装置を見るのみである。

 当時まだインスタレーションというアート用語さえなかった時に―パフォーマンスという用語と同様―早すぎた作品であった。「デッド・ムービー」はのちに「プロジェクション・ピース」(1968-72年)とタイトルが改められて2台の映写機が向き合う形で、ニューヨークのジャドソン・ギャラリーで、展示された。パフォーマンスにしろ、インスタレーションにしろ、アート・フォームとしてはまだ認められていない時代の作品であった。当時流行した言葉はパプニングで、それはアーティストが行為として行う「出来事」であって、肉体を除けば、メディアとして使われるものは、ほとんどなかった。私は機械的な道具である映写機を表現手段として使い、イメージのない「もの」となったフィルムを使うことで通常は見えない映画のシステムを「見えるもの」にした。

 このような発想は無から出発したわけではない。60年代初期に国際的に発展したネオ・ダダのオブジェの発見があった。しかし、「オブジェ」はものを対象化することは出来ても「システム」の発見にいたるには大きな距離がある。私は一方で、実験映画の「くず」(1962年)で、海岸に打ち捨てられた廃棄物にオブジェをイメージ化したが、同時にイメージをトータルに廃棄する「デッド・ムービー」の構想をもたなければならなかった。そこには発想としての大きな転換が必要であった。

 映画の世界は実験映画を含めて、コンベンションの支配する世界である。実験映画は、商業映画のコンベンションから自由であっても、自らのコンベンションをもっている。フィルム・パフォーマンスやインスタレーションはそのコンベンションからの自由を必要とする。

 私は最初に書いたように「エキスパンデッド・シネマ」の合い間にホテルの一室でこの原稿を書いているので、とぎれとぎれに書いているが3日間にわたるフェスティバルも終わりになった。このあと2週間にわたって週末毎にもさらに多くのフィルム・パフォーマンスが行われるが、私は帰らなければならない。

 この3日間の中から、私の関心に沿って書くと、ウェルナー・ネケスのもうひとつの作品「Operation」(1967年)が本人によって再演された。1人の裸の男がスクリーンの前に立って、その腹の部分に投映されたのは、腹を裂く手術のシーンで、真っ赤な血とともに腹の上を覆った。このパフォーマンスは、先述の私の「スクリーン・プレイ」(1963)を想起させた。実際の手術と、抽象映画の「いろ」という上映された映画が異なるが、皮膚に上映するというアイディアは全く同じである。私のが1963年、ネケスは1967年と異なるが1960年代で、彼のもうひとつの作品「Schnitte Fur Ababa」と同様、2作品とも似ているのは偶然の一致とは云え興味深い。時代の反映ともいえるが、日本とドイツと離れていても、作家の関心を物語っている。

 ただし投映された映画の違いはかなり重要である。ネケスの手術のシーンはそれが映画にも関わらず(あるいはそれ故にこそ)、手術の迫真性というリアリズムに依存している(血の赤を大量に見せて強調さえしている)が、私の場合「スクリーン・プレイ」というタイトルが示すように、背広をはさみでカットして作るところから始まり(ひとつのフォームがつくり出される)、上映された「いろ」もペイントによる抽象映画であり、リアリズムに依存しない。肌というテクスチャーをもった新しく作り出されたスクリーンが、異質なスクリーンとして、通常の白地のスクリーンのフィクションを逆に問うものとなっている。映画のイメージと同時に(あるいはそれ以上に)、スクリーンというフォームを問題としている。

 映画のイメージは様々な濃厚な色が溶け合い、あるいは化学反応によって色が沸騰するように混交したのち、最後に下から与えられた熱によって泡状にふくれ上がって黒くなる。色の「死」である。それらが肌の上で起こる異常さは、白地のスクリーンでは不可能なメタファーを生み出している。当時の私にシュール・リアルな興味があったことも事実である。

 私は始めの方に「私はビデオやデジタルも行っているが、同時にフィルム・パフォーマンスもつづけて、毎年新しい上演も行ってきた」と書いたが、それらは新しい作品ではないが、そこにも書いたが、毎回異なる上演という意味で「新しい上演」ではある。「フィルム・コンサート」(1962年)では「くず」(1963年)などが使われたが、最近のフィルム・パフォーマンスで使っているのは、より抽象的な「ホワイト・カリグラフィ」(1967年)で、これは未現像のクロミのフィルムの1コマ毎に、古事記の文字(最初の2―3頁のみ)を書き写した(スクラッチした)もので、通常の上映ではほとんど解読不可能である。それを8ミリ映写機の映写速度変更装置(これは古いサイレント映写機のみに付属している)を使って、速度を変化、コマ止め、逆回り映写など行うものである。このスピードの変化によって、時に解読も可能となり、1字づつ読める。昨年(2003年)、ロンドンやパリの上演では、上演しながら初めて声を出して読んだ。これまでサイレント(映写機の音を除き)だったパフォーマンスに、声という異次元の要素が加わることで、際立って変化した。もっとも観客のイギリス人やフランス人には声の意味が分からなくても、文字と音の関連は容易に想像できる。これまで、古事記のテキストは「光の戯れ」として白い線の重なり合う文字のダンスであったものに、いきなり「意味」が声として発生する。もっとも読むのは1コマの一字、しかもひらがなが多いから、文意はない。にもかかわらず、発声される声が、言葉と結びつくことで、予想される「意味」がある。この「予想」の部分は、言葉の意味が分からない(日本語を読めない)程、大きいと思われる。

 また、声はこのパフォーマンスの「ライブ」にひとつの身体性を与えている。これはスクリーンにのみ上映する通常の映画上映ではないことで、このパフォーマンスが壁面や床面と同様に、観客の身体にも上映することから、イメージと重なり合っている。文字の身体化と声の身体性とが出合う。

 「ホワイト・カリグラフィ」の最近のパフォーマンスは、私にとって、最初の言葉から意味をはぎとり、純粋に線の運動として視覚化したモダニズムの実践から、言葉の意味をそのコンテキストからは切り離して身体化したポスト・モダニズムの過程の作品として評価されるかもしれない。 

(Dance News 「PLEXUS」No.5、2005)

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