飯村隆彦:見ること/聞くこと/話すこと
フレッド・アンダーソン
Leonardo Digital Reviews, 10, 2003, インターネット、MIT Press

インターラクティブ・あいうえおん六面相と「あ」で始まる言葉のゲーム
フレッド・アンダーソン
Leonardo Digital Reviews, 02, 2001, インターネット、MIT Press

飯村隆彦 - フィルムとビデオ
フレッド・アンダーソン
Leonardo Digital Reviews, 02, 2001, インターネット、MIT Press


"Seeing / Hearing / Speeking" (見ること / 聞くこと / 話すこと)

フレッド・アンダーソン


 このDVDは基本的には飯村隆彦のビデオ/パフォーマンス作品「トーキング・トゥ・マイセルフ」(私自身に話すこと)のアイデアと、構造と、その異なった実現による作品である。「見ること / 聞くこと / 話すこと」はこのDVDの二つに大別されるセクションに関連している。一つのセクションは「聞くこと / 話すこと」で元の作品からの2001年のバージョンが作られ、演じられている。もう一つのセクションはより短い作品である「見ること」で、自分自身に話す行為が自分自身を見ることの行為に代えられている。「見ること」に使われた視覚的な装置は二つのビデオカメラと二つのモニターで、飯村のより以前の「オブザーバ / オブサーブド」の作品からとられたものである。

 このDVDには1978年からの最初のトーキング・ピースのビデオ記録も含まれている。さらに1985年にビデオ・インスタレーションとして作品の一部がどのように考えられたかの記録もある。これらの資料は長い時間にわたって再制作する思考方法に光を与えるものである。

 もう一つのより以前の作品「トーキング・イン・ニューヨーク」もあり、これは夢を見ているようなドキュメンタリーで、飯村は英語と日本語で回文である「I hear myself at the same time that I speak to myself at the same time that.....」(私が自分に話すことを同時に私自身を聞くことは同時に...)を繰り返し発声する。このパフォーマンスはニューヨークの様々な場所で行われた。さらに、DVDにはいくつかの短いテキストもある。簡潔さと明晰さがこのすばらしい作品の特徴であり、確かに飯村の作品のもっとも本質的なアイデアを現している。

  もし、私がこの件についてのモノグラフを書くとすれば、1981年の「トーキング・ピクチャー」の映画台本からの引用を頭として使ったであろう。それは「見せるものは何もない...」である。この「何もない」には飯村の別のテキストからのメタファを借りることになるが、波の静止さやフィルム・ストリップスの不動の対象に比較できるものがある。この種の映画では何も動かないように見えても、もちろん1秒間24コマの一貫した運動がある! 飯村の映画とビデオの「見る」ことの時空間へのドライで厳密な探求は、避けられない負け戦さに挑む根気のある観客と聴衆にも報いのある経験である。ここで賭けられているのは見ること、聞くこと、話すことの存在論的な状態である。飯村は70年代後半に最初に制作した時にデリダのLa Voix et le Phenom'ene(間違ってSpeech and Phenomenaと訳された)デビッド・アリスンによる英訳を読んだ。フランス語の英訳にまつわる限界にもかかわらず、飯村は彼自身の作品とデリダの批評の主要なテーマとの間に密接な関連を認識したに違いない。そのテーマとは、アリスンの英訳からの以下の文を含んでいる。「私が話すとき、それはこの作用の現象学的な本質に属する、すなわち?私は話すと同時に私自身を聞く」。

  「私は話すと同時に私自身を聞く」という句を単に分離して、「to Myself」(私自身に)の言葉を加えるだけで、飯村はトーキング作品の基本的な素材を得た。飯村は彼の云う「現象学的作用」を作り出すために、上記に示したように原文をループに代える倒置を行った。原文とその倒置文とに単一の代名詞の論理的な交換の変形を使いはたすことで、次のようないくつかの変化形を得た。例えば「私はあなたが話すと同時に私自身を聞く」「彼は私が聞くと同時に、彼自身に話す」などなど。この最低限の詩学(ポエトリィ)はデリダのテキストにすでにある未解決の問題への見通しを開いた。

  もし聞くことと話すことが私の頭のなかの全てであるとしたらどうか。もし、私の思考を聞く場合、私の聞くことを考えて見よ、(飯村の方法で、これら全ての可能性を試みること)。私が聞くことを私自身考えてみることを私が聞かないなら、どうやって自分であれ誰であれ、私は聞けるのか。他者は本当に別者か、同時には真に同じか、ビデオ台本として最初のトーキング作品に変化形が組織化されて、さらに視覚的な次元が加わった。そのフッテージはこのテキストの文を読むところを見せているが、音とイメージの間にはしばしば組織的な矛盾がある。これらの矛盾は唇と声の間、多重録音によるエコー効果、唇の運動無しの音、あるいは、音なしの唇の運動など、シンクロ(同期)の欠如による方法で達成されている。

  さらにもっと微妙な矛盾もある。テープNO.5では、飯村の口と耳だけが示され、「私は私自身を聞く...」や「私は私自身に話す...」などで始まる言葉が最初は耳や口のイメージで、それぞれ見せられる。しかし、このあとそれらの関係は逆転される。これら全ての矛盾が示すところのものは、語りやイメージとの関係で聞くことの純粋に主観的な性格である。(誰かが話していることは見ることはできるが、誰かが本当に聞いているかどうかは分からない)

  ここであまり、詳細に行くことなしに、次のような観察を言い表すことができる(そして、私はこれらは本質的であると思う)。耳のイメージは「私は聞く」という言説の有効性とは何の関係もない。私が見ることの全てはひとつの耳である。聞いていることを見ることはできない。耳は外部以外の何ものではなく、我々が聞くことと呼ぶ内部活動の常套的なシンボルである。このコンテキストでは「アイ・ヒア」は「アイ・イア」あるいは「マイ・イア」などと韻をふんでいる。さらに、我々が見ているのは本当に飯村自身の耳と云えるだろうか。分割されると、体の部分やイメージは全体として支えられたアイデンティティを失う。耳のイメージが口のイメージに入れ替わると、「私は私自身を聞く...」という言説と口の結びつきは内的な語りとしての聞くことのアイデアに関わる象形文字的なヒント以外の何ものでもないと考えられる。

  この点で、少なくともスカンジナビア人にとって、ベルイマンの映画「ペルソナ」を思い出さないわけにはいかない。「ペルソナ」の主役は一人の看護婦とその患者で、エリザベートという名前の女優で、彼女は突然、話すことを止める。映画の中のエピソードのひとつに看護婦がエリザベートの声を今聞いたのか、単に内なる声だけだったのか分からなくなる。最後に看護婦は声がつぶれて、患者と自分とを混同し始めて、話す口にズームインすると叫び出す。「私はエリザベート・ボーゲルじゃない!」。口が体無しで語るのを見る奇妙さは分断化によるアイデンティティの喪失と関係がある。セルフ・アイデンティティや自己知覚は「私は飯村隆彦である」「私は飯村隆彦ではない」など、飯村が執拗に繰り返すフレーズで、作品の中で常に問われている。

  結局、記憶と意識とは円 / 螺旋の形のように考えられているのかもしれない。
「私は私が話すことを同時に聞くと同時に私が聞くことを同時に私自身に話すと同時に私は私自身を聞く....」

  あるいは、DVDの「見ること」の作品でビデオスクリーンにカメラが向かうと無限のトンネルが作られる。このことは、我々が頭の内部に座っている小さな形として心のことを思う傾向がある古い逆説を思い出させる。さらに、その頭の中により小さな姿として永遠に続く形を思い出す。しかしここには終局的で、本質的な姿と言えるものはなく、それがあると考えるのは馬鹿げている。代わりに終わりのない後退を破る私と私自身、自我とその化身の間のダイアローグがあるに違いない。飯村隆彦が基本的に行っていることは言葉と視覚的な言説の両者の論理に応ずる会話 / 断絶におけるひとつの空間的な論理を示すことにあるようだ。もし、飯村の完全主義には確かな詩的、美学的な次元があるとしても、この[空間的論理]はその言葉とイメージの奇妙な質とは何の関係もない。


Leonardo Digital Reviews, 10, 2003, インターネット、MIT Press

top

インターアクティブ・あいうえおん六面相と「あ」で始まる言葉のゲーム

フレッド・アンダーソン

 コンセプチュアルでミニマルなアーティストである日本の映画/ビデオ作家の飯村隆彦(Taka)はある種のアンチ映画を代表しているかも知れない。この視点から見ると彼が近年CD-ROMとすばらしいウェブサイト(http://www2.gol.com/users/iimura/ Front.html)の制作に忙しいのは驚くことではないかも知れない。

  それらは初期の作品の提供と再制作を主な目的にしている。驚くことではないがコンセプチュアリストの飯村にとって、自分の考えを表わすことについて柔軟なメディアを気にかけており、フィルムやビデオの本質論や美学の意味で映画的、ビデオ的な経験にこだわっていない。しかも同時に、彼のアイディアは常にメディア自身と切りはなせないものだ。

  CD-ROM『インタラクティブ・アイウエオン』は六つの顔の(あるいは声の)表情を六つの音(すなわちア、イ、ウ、エ、オ、ン)に代表させるアイディアにかかわるものと、視覚と音/声の間、英語と日本語の間の相違に関して遊ぶゲームを構成するものとがある。彼はこれについて、最初に1982年に東京のビクター・ビデオ・センターでのビデオ・インスタレーションで行った。1993年には同じビデオの新しいバージョンを大阪のキリンプラザで展示した。現在のCD-ROMは最近のバージョンの再制作で、本人がそれらの音を発声するとアーティストの顔がグロテスクに歪曲される。最初の5つの音、アイウエオはもちろん日本語の母音で、最後のンは日本語でひとつの語が同じ音で終わる唯一の子音である。

  このCD-ROMは三部から出来ている。最初はデモで、ここでは非常にゆっくりと、アーティストの歪曲された顔と共に、発声する6つのビデオクリップがある。それぞれの音/クリップはそれ自身の背景色がある。Aは赤、Iは黄色、Uは緑、Eは青、0は白、NNは黒である。この方法で、それぞれの音はひとつのグロテスクな顔(「フィーチャー」)とひとつの色に関連づけられる。アルファベットか日本語(カタカナあるいはひらがな)の音声の文字で示されると、それらは同じ色で示される。2番目にCD-ROMの「インタラクティブ」の部分で、ここでは画面/色と音との関係を変えるように期待されている。もし私が画面/色のAを選ぶとこの画面に伴うAの音を選ぶことができない。私は他の音を選ばなければならない。私の選択にしたがって、その他の音と画面の関係は自動的に再構成され、新しい順序で再生される。これは大変単純だが、記号学的な関係の任意性について衝撃的な見解でもある。

  音と記された記号とのどのような音声的な関連ももちろん全く錯覚的で、それらは決まりきったものである。同じようにひとつの言語から他の言語への正確な翻訳の可能性を主張することは外国語の経験のない人と言える。もし私がこれをスウェーデン語で書けば全く同じ内容や感じを表現できることは決してないだろう。

  二つの非常に異なる言語と記号学的システム、すなわち英語と日本語の間のギャップを生活した飯村の経験はCD-ROMの第3部、二人のプレイヤーのための言葉のゲームに表現されている。これをプレイするには六つの顔/色で、日本語の言葉を構成するために使い、言葉は母音のAから始めなければならない。ひとつの言葉ができると、言葉の長さにより、スコアができ、言葉はひらがなとカタカナ(音声文字)、漢字(表意文字)、さらに英語で示される。このCD-ROMは単純であると共にトリッキーであり―日本語についての面白いレッスンでもある。私の4才の息子はこれが気に入って、とくに狂った顔つきが好きだ。これはアーティストが得られる最良の栄誉かと思う。

Leonardo Digital Reviews, 02, 2001, インターネット、MIT Press

CD-ROM 「インタラクティブ:あいうえおん六面相と「あ」で始まる言葉のゲーム」

top

飯村隆彦 - フィルムとビデオ

フレッド・アンダーソン

 コンセプチュアルな映画作家というのは存在するだろうか。コンセプチュアリズムはある意味で映画制作と矛盾しないだろうか? 映画経験における熱中と物語りの感覚は― 知的で、コンセプチャルな立場への不可欠な大衆的な反対物であろうか? 飯村隆彦(Taka iimura)は60年代の始め以来、映画作家であり、ビデオーアーティストでもあり、動く映像メディアの実験的な領域に向かって移動し―その領域は映画の大衆的な側面からコンセプチャルでミニマルな領域へと次第に転化した。

  現在のカタログ「フィルムとビデオ」はパリの国立ギャラリー・ジュ・ド・ポムにおける1999年5月11-30日での回顧展の際に発刊された。モノクロのみの写真は殆どモノクロによる[彼の]映画制作に全く合っており、このカタログ(仏語と日本語の並行したテキストによる)は、初期の16mm映画、例えば、「Ai(Love)」(1962、音楽ヨーコ・オノ)からバンフセンターにおいて1998-99年において制作された印象的なCD-ROM「Observer/Observed and Other Works of Video Semiology」における最近のビデオ記号学に至るまでの飯村の発展を扱い、かつ説明している。

  このテキストが英語以外の言葉において制作されたことはいいことだ。それは、ミニマルなビデオのシークエンス(2分、1,15分など)による3部作となっている。その3部作とは、「カメラ、モニター、フレーム(5シークエンス、1976-1998)」、「Observer/Observed(3シークエンス、1975-1998)」、「Observer/Observed/Observer」(シークエンス、1976-1998)」。飯村によればこれらのビデオは、記号学であり―アートの理論であるあるよりも理論としてのアートである。大変事実に即してビデオメディアの空間的構造―カメラ、モニター、オブザーバー、オブサ−ブドの関係を探究する。

  実際、ここにはカメラ、モニター、「this is a monitor」のように書かれあるいは話された言葉と―もちろん観察者(Observer)(時に自らの観察の被観察者((Observed))になる)を含めて、それ以外には何も見るものはない。

  セルゲイ・エイゼンシュテインやジガ・ベルトフのようなフォーマリズムの映画理論を参照して、飯村は「ビデオシステムの理論的な構造」と語られる言語の文法との間の関係を探究している。しかし彼の目的は言葉とイメ−ジの間の分裂(une saut)を実現することでもある。たとえばカメラが「this is a monitor」というテキストを撮影し、そしてカメラ自身に接続されたモニターに転ずると、フィードバック(モニターの中のモニターの中のモニター)が生じる。書かれた言葉とは反対に、そこには現実のモニターはなく、モニタ−のイメージの中のモニターのイメージがあるにすぎない。すなわち、カメラ(機械的な目)はそれ自身の撮影を撮影する。したがって、飯村は「this is a camera」というフレーズは、ビデオメディアにとってユニークであるひとつの「意味されたもの」を意味すると結論づける。つまり、このフィードバックは、ビデオカメラによってのみ可能である。それは「ビデオ フレーム」(フォトグラム)は電気的信号の介入以外のものではない。したがって、個別の「フィルム フレーム」よりも、より不安定で一時的なものである。

  飯村もまた、ジガ・ベルトフの「私は機械な眼(I am the mechanical eye)」という言葉にしたがって、「私はカメラである(I am a camera)」を結論づける。この方法で、飯村のビデオの記号学は、現代世界における「セルフ アイデンティティ」と「視覚的(visual)テクノロジー」の間の関係の問題を提案する。このカタログが、ダニエルとクリストフ・シャルルによるテキストを加えて、飯村の作品におけるこの問題の重要性を明らかにしているのは素晴らしい。私は、これがより精巧な研究を引き出す良い導入になっていると思う。

Leonardo Digital Reviews, 02, 2001, インターネット、MIT Press

top