映画的黙想について
(日本映像学会第33回全国大会研究発表要旨、2007年6月2日)

飯村隆彦


 
映画の鑑賞が通常、黙って見ることには、誰も疑問をもっていない。いわば当然のこととして受け入れられている。しかしこれは鑑賞者が100%受け身であることを意味するものではない。むしろそこには暗いなかで考えるという映画特有の思考形式がある。

 このような映画的黙想を作家として考えた場合どのようになるか、それは作家が鑑賞者でもある二重性において制作することを意味するのではないか、このような疑問と思考によって、私が制作した一連の作品がある。最近「映画的黙想のために」というタイトルで発刊したDVDである。 

 このDVDには二つの短編作品がある。ひとつは「IN THE RIVER」(1969-70)、他は「SHUTTER」(1971)。ともに、ミニマルな実験映画であるが、その制作方法は大変異なる。しかし通底するのは、作家が鑑賞者であることを積極的に受け入れて、「見る」ことのプロセスを作品の創作の方法にとりいれたことである。
 
「IN THE RIVER」はカトマンズに旅行した時に8ミリで撮影された聖なる川で水浴する男のシーンを、編集用のビュアーのスクリーン上で何度も再撮影している。編集は映画おいて作家が最初に自らの撮影された素材に立ち向かう作業である。ここでは「見る」ことが度重なって検証される。一つのシーン、一つのカットがそのスクリーン上で、行ったり来たりしながら時間列を反復し、重なりながら進行する。このようなプロセスは作品のイメージの生成過程に反映され、しかも手動によるビュアーのシャッターの開閉が、ちょうど眼を開閉するまぶたのように、可視化されて、観客はこの映像が撮影された生のイメージではなく、(それが何であれ)反映されたスクリーンを見ていることを知る。

 この作品を批評したアメリカの批評家、スコット・マクドナルドは「興味深いのは、川の流れの中で男が注意深く水浴する行為と、カメラを通したフィルムの流れの中で飯村が注意深く男の身体的には単純な行為を分析することがパラレルな関係にある」ことを認め、このような「分析」を通して「観客が瞑想に入る可能性」を示唆する。

 二作目の「SHUTTER」はより直接的である。この作品は編集用のビュアーのスクリーンではなく、投映用の通常のスクリーンを撮影している。但しスクリーンには何も映されず、光のみが投影される。但し、カメラと映写機の回転速度が異なるため、中心の輝度が強いやや楕円形の丸い映写ランプの光が映る。この光は映写機のシャッターの回転により、フリッカー現象を起こす。この明滅する光はスクリーンに反射して観客を照らす光であり、さらには観客がスクリーンになることでもある。ここでもシャッターは光を遮って、 中心で浮遊する光の眼の玉の瞬きをくりかえす。そして作家が示唆するように、スクリーンになった観客が眼を閉じることで「見える」世界がある。そこから生まれる黙想的な世界がある。

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"IN THE RIVER"




"SHUTTER"