「飯村隆彦の舞踏映画」インタービュー


ブトウについて、近年欧米で研究が盛んになっていることは、知られれてきているが、最近は舞踏映画についても、日本よりも一足も二足も進んで来ている。サンフランシスコ州立大学のアーロン・カーナーの飯村へのインタービューもかれの前文における分析と共に、これまで知られていなかった事実を明かすだけではなく、飯村の土方巽を撮った2本の映画の特性を、他の舞踏映画とは異なる「映画と舞踏を結合する」試みとして高く評価する。作家の提唱した「シネ・ダンス」のコンセプトに初めて正当に評価したものだ。

 このようなコンセプトだけに留まらず、例えば、「あんま」に映った、1シーン、ダンサーの背中に描かれた、中西夏之の女性性器と映画の導入部に飯村が医学書から撮影した女性性器の描画の関係を指摘して、細部への研究も怠らない。残念ながら日本には、ここまでの研究者は現れていない。

以下、彼がまとめたペーパーからの翻訳。(T.I)

飯村隆彦の舞踏映画 「あんま」(1963)と「バラ色ダンス」(1965)のシネダンス*(1) 
アーロン・カーナー

 土方巽は1950年代の中頃、文字どうり、闇のダンスである暗黒舞踏を創始した。東京の前衛の中心地において、土方はラジカルな演劇の上演や、ハプニングなどに参加し、ネオダダのハイレッドセンターの中西夏之、赤瀬川原平と密接に関わった。また、日本の昔の伝統や地方の祭りや神話からもしばしば引用した。身体が彼の考えの核にあって、極めて、カリスマ的で神秘的な土方は17本以上の映画、ー短編の実験映画、記録映画、劇映画などに出演している。これらの映画のなかで、結局、2種類の「舞踏映画」がある。一つは、イベントの記録からで来ているドキュメンタリー映画で、他は、舞踏の要素を映画制作の実際に結合する映画である。飯村隆彦はこの後者のカテゴリーに適合し、この実現を「シネ・ダンス」として合致させている。

 この種の舞踏映画に進む前に、その違いをよく理解するために、最初のカテゴリーの性格を見てみよう。多かれ少なかれ、大部分の映画はこのドキュメンタリーに属し、この中には物語的な劇映画のなかで、舞踏をあれこれの形で使うものも含まれる。これらの映画は、ドキュメンタリーや民族映画の慣習的な撮影コードを採用する傾向がある。一つの舞踏パフォーマンスや、或は一人の舞踏パフォーマを取り上げる時、しばしば、ミディアムーロングショットかロングショットを使う。カメラはパフォーマンス空間の「外側」に置かれ、イベントの「客観的」なオブザーバとして位置づける。

そこには、ある距離を持って撮影する傾向があり、何故なら、クローズアップは、フィルムメーカーが「部分的」になる(あらゆる意味で、例えば、あるえり好みを見せたり、全体の絵を見せなかったりする)意味合いがある。広角撮影は、トリ・ミンハが民族映画についての議論で観察したように、イベントをコンテクスト化して捉え「フレーム*(2)の中に、より多くを入れられるので、より客観的」と見られるからだ。この「客観的」な視点を保つために、カメラは、典型的には固定され、カメラの運動は、もしあっても、通常はスムーズなパンやティルト、トラッキング・ショットに限定さる。それらのショットもフレームの中心にあって、スクリーン上に姿が維持される意図で使われ、そのように十分具体化される(あるいはひとつのシーン内に少なくも織り込まれている)。このような構成的な方法は空間的な場の同一性を維持する意図があり、舞踏映画のドキュメンタリーも時間軸の真実性を守る聴覚と編集手段を使っている。したがって、「映画的時間*(3)よりも、<真実性>がより以上に実感される」と考えられる「リアル・タイム」を志向する限り長回しの撮影が好まれる。編集は常に選択を意味して、時間持続の同一性を侵す。しかし、長い撮影が実際的ではなく、例えば、物語的な劇映画で、ショット・パターンにある予想ができる「リアル・タイム」にかわって、一貫した物語が「映画的時間」と「リアル・タイム」の間の不一致を隠す助けになる。  

   編集における方法と同様に、音のデザインでも、映画の時間要素を「真実らしく」する事が出来る。長時間撮影のように、同時録音はスクリーン上の一つの物語の真実性を保証する。音楽のように現場にない音は一つのショットを一貫した全体に融合することで、一つの線的な物語が行うのと同じような働きをする能力がある。同時に、しかしながら、非現場的な音は「リアル・イベント」と「フィルム・イベント」の迫真性の欠如も指摘する可能性がある。ともあれこれらの空間的、時間的な方法は舞踏映画のドキュメンタリー形式の特徴である。

   例えば、石井輝男と細江英公の映画は、舞踏映画のこのドキュメンタリーのモードを使う傾向がある。これらの映画作家は、ジャンルの区別では非常に離れている。石井はB級映画の作家として有名で、エロ・グロジャンル映画のパイオニアであり、石井特有のファンタスティックな要素と拷問、サディズム、セックスを混合したものである。一方、細江は戦後日本の最も有名な写真家の一人で、細江と土方は短い実験映画、「臍と原爆」を1960年に共同制作した。石井と土方は3本の長編劇映画を製作した。「恐怖奇形人間:江戸川乱歩全集」(1969年)、「怪談昇り竜」(1970年)、「明治、大正、昭和猟奇女犯罪史」(1969年)。最後は悪名高い阿部定を描いた。石井は土方のパフォーマンスから多くの要素を取り入れた。土方の有名な「肉体の反乱」(1968)のパフォーマンスから直接その要素が「怪談昇り竜」に、「あんま」の素材は「恐怖奇形人間:江戸川乱歩全集」に使われた。これらの映画で,土方は彼にはぴったり合っていた、全く狂った男の役を、あれこれと演じるキャラクターとして、呼ばれた。石井の映画は、劇映画の決まった型に合致するものであるが、彼の映画における舞踏映画の要素はドキュメンタリーの形式の基準にあうものだった。ミディアムショットや,ロングショットを好んで土方(或は他のパフォーマでも−その数は多い)を真ん中に来るようにフレームして、シーンの中に彼の体を織り込んで、確固とした固定カメラでスムーズにコントロールされた移動やパンショットなどを撮影した。ただし、映画作家自身の身体は否定された。これらすべては、空間的、時間的流れを維持するためだ。

 一方、細江の「臍と原爆」は普通の劇映画の定番からは遥かに遠いもので、映画の最初のシーンではフレームの外縁を人物によって強調した。にもかかわらず、舞踏映画のドキュメンタリーに忠実で、アクションはほとんど常にフレームの真ん中に位置し、最も重要なことは,カメラが固定カメラのままだ。カメラの運動は,メカニカルで、ティルトや,ズームに限られ、これらは細江のフォーマルな写真の特徴でもある。「臍と原爆」は一つのパフォーマンスを記録するが,映画自身はパフォームすることはない。さらに,まったく,詩的ではあるが、「臍と原爆」を支配する強い物語性がある。この物語性が「フィルム タイム/イベント」と「現実 タイム/イベント」の間の区別を隠して、空間と時間の連続性のイリュージョンを創る。

 さて,舞踏を映画制作自身に結合する映画、飯村がシネ・ダンスと呼ぶものを考えてみよう。最初にして、最も重要なことは、この種の舞踏映画においては、映画作家自身の身体の抑圧や,拒否がない。固定カメラの手法では,映画作家は効果的に,抹消されるが、結合する手法では,手持ちカメラが使われる傾向がある。手持ちカメラでは、スクリーン上のイメージは映画作家の動きに一致する。これは,飯村の「あんま」の場合であり、よりすくないが、「バラ色ダンス」の場合でも、映画作家はパフォーマとともに、動く。手持ちカメラの自由な動きは,舞踏映画のドキュメンタリー形式の機械化され、高度にコントロールされた動きとは,全く対照的である。

 「あんま」の目的は、起こっているイベントを記録するよりも、それを体現する事で,映画におけるショットは映画作家とその運動の動作上の軌跡である。 [映画の]構成と空間的現場の見せ方でも、ドキュメンタリー形式とは,本質的に異なっている。飯村の舞踏映画では、クローズ・アップが沢山あり,それらのショットは、レンズの結果ではなく、映画作家がパフォーマに接近した結果である。実際、チャンスがあって、飯村は彼自身をパフォーマとともに,現実にステージに上がって、パフォーマンスに同化する。客観的な距離をおく、ドキュメンタリーの観察的な方法とはラヂカルに異なって、飯村の映画では、パフォーマと映画作家のあいだに親密さがある。既に議論したように、「クローズ・アップ」は文字どうり、そして形態的にも「部分的」である。これは特に「あんま」ではまったくあきらかで、クローズ・アップの多くは緊密で、「部分的」で,パフォーマの身体は抽象化される。この抽象化はー通常のドキュメンタリー/民族映画とは,全く反対に−映画作家の個人的な遠近法を現わし、客観的な観察者であるという見せかけはない。
舞踏映画のドキュメンタリーの規範はカメラ/映画作家はパフォーマンスの外側に位置する事を必要とするというものだが、内側にいる事−飯村の映画に発見するようにーイベントの単なる観察者に留まらず、ある程度かそれ以上に「その1部となる」。

 結合の方法の時間的様相は、ドキュメンタリー形式の舞踏映画とは、全くことなっている。時間的連続性は結合の方法の最優先の課題ではない。舞踏映画のこのカテゴリーの中には、(特に、小型にデジタルカメラの出現で、同時代の作品では)時間的連続性を見せかける例もあるが、時間的に順序どうりの秩序のある映画や物語を作る事は、必須ではない。「あんま」はこの例で、時間的な同一性を維持する何の努力もない。それでもある種の物語性があるー映画はダンサーが公演のため準備するところから始まり、観客が劇場に入る経過があって、続いてパフォーマンスが行われる−にもかかわらず、映画は時間的に前後して進む。

 この時間的な連続性に対する無視は飯村の場合や、他の60年代や70年代に仕事をした他の人たちは、多分,技術的な限界に関連している。舞踏映画の結合形式にかかわる移動性はー「あんま」や「バラ色ダンス」の場合ー飯村は小さなねじ巻き式の8ミリカメラを使っていたので、ショットは15秒に限られ、すぐまたカメラのゼンマイを巻かなければならなかった。このような撮影では、ある種の限界があるものの、時間的な連続性を持する拘束や義務から自由であった。

 同様に,舞踏映画のオーディオも技術に結びついていた。石井の映画のような土方や他のパフォーマが出演した劇映画を別にすれば、60年代の映画には同時録音のものはない。しかし70年代には16ミリやのちに,ビデオ*(4)でパフォーマンスが記録されると、同時録音が現れ始めた。この技術的「限界」はまた、時間的秩序から映画作家を解放する徳に転じる事が出来た。

   実際、オリジナルのバージョンでは、音がなかったが、最近の再発刊した映画(2007年)−飯村が再編集し,追加したーでは,足立智美に作曲を委嘱した。*(5)

前に述べたように,非現場的な音の使用は、「リアル・イベント」と「フィルム・イベント」の間の不一致を拡大する能力か、一貫した全体のなかに、ショットを結合する物語と同様に機能するかである。飯村の舞踏映画がこの点に関して,どちらに位置するかは,明かではない。はっきりしていることは、個人的な映画作家として、自分の作品に物語を課する事に、何の強制も感じていないことである。

  アバンギャルド映画の先端において、飯村隆彦は1960年代以来、疲れを知らずに実験的な作品を創作し、現在でも新しいメディア/テクノロジーとともに、実験を続け、常に先端で,70年代にフィルムからビデオに移動し,その後は様々なデジタルメディアを使っている。驚くほどに多産で、国際的な賞賛を得、無数の賞とフェロウシップを受けてきた。1966年に飯村はハーバード大学での夏期セミナーへの招聘を受け、その後2年間、ニューヨークに滞在して,アバンギャルドのシーンに積極的に参加して、ジョナス・メカス、ヨーコ・オノ、フルクサスの他のメンバーなどと交流した。

   アートと映画の歴史における飯村の重要性を過小評価することは出来ない。実際のところ、彼は,非公式の、あるいは偶然の「仲介者」として、東京とニューヨークの間で、さらに世界中の他のコスモポリタン・センターで、働いてきた。活動的なアーティストに加えて、さらに飯村は批評的な活動に加わり、書いて来たもののコレクションを発刊した。*(6) 2009年6月13日、私は彼の舞踏映画、土方と他のアーティスト/映画作家などとの60年代の関係について飯村と話した。以下は会話の部分で、彼は非常に寛大で、大変感謝している。

アーロン・カーナー(以下AK):土方とは最初、どのようにお会いしましたか。

飯村隆彦(以下TI):それが曖昧な記憶で、正確に覚えていません。60年代の初めです。その頃、東京にとっても小さなアバンギャルドのサークルがあって、映画作家や、大部分は画家ですが、ネオダダやハプニングなど、その種の背景を持った人たちですが、もとは共通の友人やアーティストを通じていました。多分、彼のスタジオが最初だったけれど、実際に会ったのは、別かも知れません。

AK:草月アートセンターかも、その種のところですか?

TI:あり得ます。草月で「あんま」が1963年に公演され、映画に撮りました。 それ以前に、私は草月に関係して、映画祭の組織を手助けし、最初の実験映画祭[1967年]が行なわれました。

AK:土方は、映画に大変、関心があったと思います。

TI:あなたがさっき、インタービューの前に言ったように、彼は実験映画に出演して、それらの友人や、アーティストを知っていました。しかし私たちは、どうしてか、このアバンギャルドのサークルで会いました。

AK:もとは共通の友人やアーティストを通じてですか。

TI:そうです。彼はネオダダに関係していました。

AK:中西[夏之]や、赤瀬川[原平]ですか。

TI:そうです。ハイレッド・センターの人たち。私は土方以前に、彼らを知っていました。彼らはみんな、友人です。

AK:ハイレッド・センターについて、聞きたいと思っていました。彼らはあなたが撮影した映画[「DADA 62」1962年]に深く、関わっていますね。

TI:そのとおりで、彼らは、大きな、最初のネオダダの展覧会、彼らは「ネオダダ」とは呼んでいませんが、上野公園*(7)でのインディペンデントのアーティストの、一般に公開された、誰でも参加出来るものでした。アーティストと同じように、アマチュアも参加できる混成でした。

AK:面白い時代だった。。。

TI:まったく、ネオダダとアクション・ペインティングの時代で、1962年、ネオダダの展覧会があった。その年のあいだ、私は最初の映画、「くず」(Junk,1962)を海岸で廃物を撮影しました。

AK:「くず」は今年(2009年)、サンフランシスコのアジア・アメリカ映画祭で上映されました。

TI:「くず」とネオダダとは、非常に関係しています。このような環境では、誰かに会うことは、可能だった。彼は私より年配だった。

AK:土方が?

TI:そうです。でも私たちは友達だと思った。

AK:そこで、土方があなたに「あんま」の撮影を頼んだわけですか?それとも。

TI:いや、私が頼みました。公演を撮りたかったので。かれは「オーケイ」しましたが、特に映画に関心があったわけでも、実験映画についても、細江英公の「臍と原爆」(1960年)に参加していましたが、よく知っていたわけではありません。あの映画についても、彼らがどのようにして映画を撮ることになったかも、私は知りません。実際、「あんま」の撮影についても、特に関心があったわけではなく、「オーケイ」しました。彼は私に注文することはなく、私はやりたいことが何でも出来ました。

AK:非常に驚いたことは、映画がストレートのドキュメンタリーではないということです。

TI:そのとおりです。

AK:何故なら、間違っていたら直してください。編集は時間どうりではない。

TI:時間どうりではではありません。私は又、自分の材料も加えています。「あんま」のテキストや、「バラ色ダンス」の始めにある生殖器官の医学的な描画などで、実際の公演には、何の関係もありませんでした。

AK:「バラ色ダンス」の医学的なイラストレーション。

TI:そうです。

AK:あのイラストレーションについても聞きたいのですが、中西のデザインから来ていると思っていました。

TI:中西はパフォーマの背中にあの絵をデザインしましたから、その意味では、関係しています。

AK:しかし、あなたのイラストレーションは極端なクロ−ズ・アップですから、抽象化されたと言えますね。あなたはストレートな記録には全く興味がない。

TI:ええ。撮影の仕方も普通のドキュメンタリーとは違います。8ミリのゼンマイ式のカメラで僅か15秒しか撮れない。非常に短く、私は1台のカメラで、撮影するとすぐに巻き直し、その間もパフォーマンスは続いています。

AK:何か、「見失った」りしましたか。

TI:ええ。見失ったり、しかし、「あんま」の場合、しばしば同じ舞台に上がって、カメラを持って、他のダンサーと一緒に、自分でパフォーマンスを行っていました。実際それが私がしたかったことです。ただの記録ではなく、参加して、カメラをもって、私自身であるひとつのコレオグラフィを行うことです。これは私のアイデアで、「シネ・ダンス」と呼んでいます。しばしば、ダンサーに非常に近ずいて、この小さなカメラで動き、時に非常に抽象化され、時間的にはダンサーの行為を連続して記録していないので、ジャンプします。技術的には、ある意味で限定されてます。しかし、私自身の撮影方法で、パフォーマンスをカバー出来ます。私は連続性や、関係をつけることにこだわっていないので、むしろこの種のジャンプ・ショットや、ジャンプ・カットを見せたいのです。

AK:この紙にメモした私の質問を先取りされたようですが、何故なら、緊密なクローズ・アップや身体の抽象化について、特にお聞きしたい。

TI:ええ、非常に近接して、殆どこれくらい[腕の長さで、或はもっと短くジェスチャーして] 彼らの顔や体に大変近くいました。さらに私の手はカメラの延長として、あるいは、カメラは手の延長として、これは、私が「カメラ・マッサージ」と呼ぶものに関連しており、このアイデアはその後「カメラは身体の延長である」と言ったマーシャル・マクルーハンからきています。しかしマクルーハンがそれを言ったのは、私がそのコンセプトを[映画で] 体現した時よりはあとだった。*(8)

AK:実際、私は撮影の行為にはある種のエロティシズムがあると言った原一男と会って来たところです。

TI:その頃、私は実験映画も、ドキュメンタリー映画も多くは見ていませんでした。私たちにはシネマテークもフィルム・ライブラリーもなく、大変貧しいリソースしかなく、[映画について]読むことが出来るだけでした。

AK:草月はまだ、フィルム・センターとして現実に始まっていなかった?

TI:後で、映画祭を初めてからでした。まだその前でした。1965年にパリのシネマテークからかなりの前衛映画が来てからだと思う。あれが最初でしょう。当時、実際の映画については、僅かの知識しかなく、読むことは出来ても、非常に小さな写真から映画がどんなものか、想像出来るだけでした。

私の経歴がそうですが、高校生の頃、詩作していました。視覚詩のようなダダイストの詩に影響されたダダの詩ですが、漢字の言葉を使ったもので、詩として、視覚化したものです。この種の視覚詩を読んでいましたし、その考えを持っていました。物語には興味はありませんでした。

AK:確かに、「あんま」においては、物語は重要な問題ではありません。それでも、物語の1種と言える、ダンサーが準備しているところから始まり、観客が劇場に入り、パフォーマンスが始まる、という物語的な進行があります。

TI:ええ、その意味では。そして、特に、もう一人のダンサーに関しても、

AK:大野ですか?

TI:大野、そうです。アウトサイダーとしての大野、パフォーマンスは、東北地方の、非常に厳しい村落をモデルにしています。コミュニティの一員でなかったら、常にアウトサイダーと見られる。大野はそのようなアウトサイダーを演じています。彼は人々に乞うているように、若い少年たちが、ボールに興じている中で阿呆を演じたり、又、着物を着た老婆たちなど、彼はコミュニティに入りたいが、常にアウトサイダーでいます。そして舞踏をとうしてのみ、彼らの仲間になります。そういうストーリーだったと思う。

一方、土方は現実への一種の侵入者として、シーンに非常に暴力的に侵入します。 丁度,自転車のシーンのように、いきなり自転車で現れ、かれらのコミュニケーションを妨害します。 また、お婆さんたちが,伝統的な三味線を演奏し,象徴的な意味で、村祭りのようなところがあります。実際、音楽としても、本当の三味線弾きをつかい、また、当時の大衆的な歌も使いました。しかし、それらの音を私は何も、記録していません。この舞踏にはある種の村祭りの背景がありますが、常時ではなく、突然現れます。

物語に関して言うと,フラッシュバックに似た効果ですが、フラッシュバックを重ねて(ダブル・フラッシュバック)使いました。フラッシュバックは物語映画の手法ですが、アウトサイダーとして、西洋の着物を着た大野と、インサイダーとして,日本の和服を着た大野が2回、行ったり,帰ったりして、[映画の]終わりに近く、舞踏ダンスの最高潮のシーンで使いました。最初はアウトサイダーとして、パチンコ球を(姿の見えない)「インサイダー」に対して狙いますが、フラッシュバックすると、彼はどこにも行けず,自失する。カメラはその間,激しく彼の周囲を回りー私が[シネ・ダンス]と呼んでいるー着物を着て座っている彼の足の裏に近接する。ここで2度目のフラッシュバックで、パチンコ球を持った[洋服の]大野に1瞬、フラッシュバックする。そして次に、着物を着て、嬉々として踊る大野のシーンに替わる。これらのフラッシュバックは物語の手法ではなく、一つの世界から,他の世界にジャンプする手段としてーしかも, 舞踏にはなく、映像の上だけで可能なイベントとしてー使われました。これらは、足立智美の新しい音楽の入った2007年のバージョンの「あんま」で見られます。 これが、「あんま」のコンテクストで、アウトサイダーが如何にコミュニティに加われるか、一緒になることが出来るかと言うものです。

AK:そのような意味では、あなた自身も、パフォーマンスの中に一つの役として、参加することを、考えましたか。

TI:ええ、パフォーマンスには、参加を考えましたが、コミュニティのなかにではありません。私はアウトサイダーとして演じており、また、写真家、映画作家でもあります。他にも、舞台上にカメラマンがいて、それらのパフォーマーを撮影したりしましたが,彼らは土方が頼んだものと(私は思いますが)、土方はこの舞踏を、内側だけではなく、カメラマンの眼からも、ある種の外側からも、見ています。これは私の分析で、土方は内側/外側を同時に見ています。
しばしば,土方の舞踏から、人々は感情的なメッセージをうけとりますが、私は彼はもっと,クールな男だと思う。

AK:クールというのは、厳格な性格,それとも,ヒップという意味ですか。

TI:ヒップだけど,「クール]とは,自身についての自覚があり、自分が何者か知っており、自分の位置を知って,行動する。そう言う意味です。

AK:「バラ色ダンス」(1965年)は「あんま」(1963年)の2年後に撮影されたたが、「バラ色ダンス」と同じような状況で土方に頼んだのですか、あるいは、土方が「あんま」を見て、「バラ色ダンス」の撮影をあなたに頼んだのですか

TI:いや、いや、思い出す限り,そう言う会話はありませんでした。彼は、映画撮影について大して気にしていませんでした。私は彼に8ミリプリントをあげましたが、彼は長いことただ持っているだけでしたが、後に、かれの妻が私に断りなく、音楽を加えたり、複製したりしました。土方は映画にしばしば出演していましたが、自分では,映画に興味があったとは思えません。それが私の観察です。

AK:「あんま」の撮影の最初の経験から、「何か違ったことをやってみたい」と思ったことは?

TI:「バラ色ダンス」について?

AK:ええ、そうです。

TI:バラ色ダンス」は全く違った状況でした。劇場も違います。大きく、舞台の上に2階の座席があって、そこから、俯瞰が撮れます。舞台の上にもしばしばいましたが,同時に座席からも、ロング・ショットを撮りました。しかし、露出に関して、大変な失敗もありました。

AK:それについて質問しようと思ったところです。

TI:しばしば露出過剰でした。それも使いましたが。そういう違いです。また,ダンス自体も,大変違います。より西洋化して,「あんま」のような物語はありません。また,より伝統的なモダンダンスに近いものです、振り付けとしてという意味ですが。私は「あんま」の方が,面白いですが,他の人たちは,「あんま」よりも有名な「バラ色ダンス」に興味を持っています。

AK:あなたが「バラ色ダンス」よりも「あんま」が面白いのは何故ですか。

TI:「あんま」には、「バラ色ダンス」よりもオリジナリティがあり、土方自身のルーツがこの舞踏にあります。さらにダンスとしても、優れており、成功しました。

AK:私も似た感想を持っています。「バラ色ダンス」の大野の存在は明確で、バレーに近いんものがあります。実際、「あんま」と「バラ色ダンス」の入ったDVDの裏面のカバーを読むと、評者(ニコラ・ビロドレ、パリ・ダンス・シネマテーク、キュレータ)はドイツの表現主義について言及しています。*(9)「バラ色ダンス」のイメージは、「カリガリ博士」を思い起こしました。

TI:いや,彼が言っているのは,ドイツの表現主義よりも、ネオ・ダダだと言っています。

AK:しかし、それがまさに,問題です。それを明らかにする必要があります。ドイツの表現主義のキャンプではなく、日本の流れに位置づけることが必要です。ドイツの表現主義の要素があるにしろ(あるいは偶然にしろ)、大野がそこにいるだけというーあるいは[画面上の]コントラストがあった(特に露出過剰による熱い白に関係して)こと、ショットが下方から撮影されるなどして、「表現主義的な」感じになったことがあります。

TI:それは映画のスタイルか、それともダンスのスタイルについてですか。

AK:両方ですが。もちろん、大野は明らかにドイツの表現主義の要素があり、そのやつれた形相と、さらに、映画のコントラストの強さがあって、特に,最初の方のショットに関連して,これらの漂白した白さ、また、フレーミングも含めて,それらが一緒になって,表現主義的な感受性があります。

  TI:ええ,確かに、大野はより表現主義的になる傾向があり、ダンススタイルもそうです。私はあまり評価しませんが、私は土方の振り付けの感覚を好みます。大野よりずっとダイレクトで、マッチョではないけど、男性的な強い存在感があって、その反対に、大野は大変,女性的な性格です。

AK:さらに、違いもあります。大野はクリスチャンで、彼の感受性は普通と違います。私は元藤嘩子*(10)に生前、亡くなる少し前ですが、会う機会に恵まれ、舞踏とバレーの違いについて、話してくれました。バレーは上方へ動く傾向があり、舞踏は、下方へ降りる傾向がある。バレーの上方へ動く運動はキリスト教に起因し、天国への接近を意味します。舞踏の下方へ降りるのは地面へのつながりがあります。 

TI:それは詩的な修辞で、ダンスそのものではない。そのように言うことも出来るでしょうが、私はそのようには,感じません。

AK:ええ「バラ色ダンス」では、編集の方法では、「あんま」に比べて,線的な構成がありますね。

TI:必ずしも,そうとは言えません。ええ,時間に関しては、そのとおり。でも物語に関してはそうではないでしょう。

AK:物語を意味しているわけではなく「あんま」に比較して、いい言葉がありませんが、クロノジカルという意味です。

TI:ええ、クロノジカルには、そうです。「あんま」よりも、沢山のシーンを失っています。はるかに少ない材料です。もっと多くのダンスがあったが、撮影出来なかった。時間的にはクロノジカルだけど、スムーズには行ってはいません。一つのシーンから,次のシーンにジャンプしています。
パフォーマンスの最後に、ジャパニーズ・モダニズムと私たちが呼ぶシーンがあります。明治時代の始め、この種のモダニズムがあって、そう呼ばれていますが、西洋文化が入って来て、みんな崇拝しました。それで,大変おかしな西洋の着物とスタイルがあり、また,歩き方もそうです。明治時代の特有のモダニズムです。このダンスにもあって、かれがどうして、この種のアイデアを使ったのかわかりません。

AK:大野ですか,土方ですか。

TI:土方です。

AK:土方のパーソナリティについて,土方を知っている2、3の人と会いましたが、特にそのうちの一人は,土方と(仕事の面での関係について)大変警戒していました。何故なら、土方は自分の世界に人々を引き込み、さらに利用する能力があった。あなたには,土方と仕事をすることに,何か保留がありましたか

TI:笑いながら)そう言う経験はありません。

AK:既に話したように、土方から何の指図も受けていなかった。

TI:そうです。

AK:(土方が出演した)映画を、それまで見たことがなかった。例えば,ドナルド・りチーの映画や。。。

TI:リチーの映画は見たけど,あなたが言ったのは,何でしたか。

AK:「犠牲」(Sacrifice, Donald Richie, 1959_ …

TI:リチーの映画を見たのは,昔のことで,会ったのは、60年代のはじめでした。この映画は見ていないと思います。 

AK:細江の映画(「臍と原爆」1960年)も見ていない?

TI:細江のは見ています。60年代初期に見ています。スタイル化した実験映画で、演技に関しては、パフォーマンスのための演技で、儀式化したものです。

AK:そうです。さらに,より強い物語の要素がありました。すでに見ていたから「細江のような映画は作りたくない」と考えたことはありませんか。

TI:いいえ、彼からの何の影響もありません。また私の撮影方法と彼のとも関係ありません。私はもっと自由に、もっと個人的にやりたいと試みました。私は小さなカメラを使って、一人だけのー反応/行為(リアクション/アクティング)を同時に行っていました。単に撮影(filming)するだけではなく、映画を行う(doing film)ことも私の関心でした。だから細江の映画とは何の関係もありません。

当時、実験映画は大変少なく、一般に,映画カメラを個人的なものとして、映画を私的に作れるとは誰も考えてはいませんでした。映画制作とは、単に伝統的な物語か、スタイル化した実験映画のしきたりに従うことで、カメラを個人の表現の道具とも、カメラをそれ自身として使うこともありません。商業映画では、ヌーベル・バーグのように、「ジャン・リュック・ゴダールのような」個人化された撮影方法が、より自由な動きを伴って発明されていました。それでも、まだずっと重いカメラでスタイル化された撮影を行って、8mmカメラができることは何も出来ませんでした。私はあとになって、マヤ・デーレン[アメリカの1940年代の実験映画作家]の「カメラのためのコレオグラフィの研究」(1945年)を発見しました。彼女はダンスを撮影と一緒に行うことを試みました。

AK:例えば細江のような人よりも、マヤ・デーレンに親近感を持ちますか。

TI:ええ、でも当時はまだ見ておらず、マヤ・デーレンはのちに、アメリカで見ました。

AK:振り返って見ると、マヤ・デーレンに、他の誰よりも、共通性を見いだしますか。

TI:ええ、でも、マヤ・デーレンは、[ダンスと映画制作を]結合しようとしましたが、スタイル化された撮影アプローチに従い、彼女は、まだアングルや[カメラの]設定は伝統的です。

AK:ショットは、静止的で,若し間違っていなければ、殆どすべてのショット、必ずしも全部ではないとしても、静止的なカメラで撮影しています。斜めのアングルでも、手持ちカメラとは異なって、しっかり固定したカメラで撮っています。

TI:その意味では、マヤ・デーレンよりも、ジャック・スミス[アメリカの1960年代の実験映画作家]の方が、より自由です。

  AK:その点、多分,細江とマヤ・デーレンは多分、共通したものが、スタイル化された、儀式的で、静止的なものがあります。

 少し前に取り上げた、ハイ・レッド・センターについてお聞きしたい。赤瀬川原平(あんま)、中西夏之(バラ色ダンス)の美術担当は,はっきりしていますが、パフォーマンスの前に、撮影の方法など打ち合わせをしましたか。

TI:いいえ、パフォーマンスを撮影する会場に行ったら、彼らがいるのに気ずきましたが、(最初は)かれらがどのように、参加したのか分かりませんでした。彼らと撮影について話したことはなく、彼らが参加したのは見えており、そこに彼ら自身のアートがありました。
しかし、それ以上に、「バラ色ダンス」ではパフォーマの風倉匠がいて、私の「リリパット王国舞踏会」にも出演していますが、-パフォーマンスをするパフォーマですが、ー彼は沢山のハプニングも行って、ヨーコ・オノ作品に似ていますが、大きなバルーンの中に入ったり,その種のパフォーマンスをやりました。
彼は画家でもあって、「リリパッと王国舞踏会」はかれのパフォーマンスからタイトルだけ借りたものです。1964年で、「あんま」のあとに作った映画です。

AK:あなたがハプニングを言ったのは、面白いですね。私が次に質問しようと思ったからです。あなたがニューヨークに行ったのは、もし私の記憶があっていれば、1968年ですか。

TI:いや,1966年で、ハーバード大学のセミナーに招待されました。

AK:アラン・カプローが具体と出会った時、アメリカ人がやったより以前に「ハプニング」と同じことをやっていたのを発見して、驚きました。あなたは、アメリカに来た時、「あんま」や「バラ色ダンス」を持って来て,上映しましたか。あなたの映画で「見ろ!彼らはすごいぞ。」という「再発見」があったのでは?

TI:私がアメリカに最初に来た時には,土方の映画を持参しませんでした。もっとあとで、60年代の中頃ではなく、舞踏がアメリカで知られるようになるのは、70年代の終わりか,或は,80年代になってから、ヨーロッパよりもずっと遅くなってからです。それもあって舞踏の映画を見せませんでした。

パフォーマンスやハプニングについては、知っていましたし、関係もありました。彼らは,友人でもあり、ハイ・レッド・センターやその周辺の人たち、私自身は参加者ではありませんが、観察者であり、友人として、パフォーマンスにはよく行きました。フルクサスの人たちがいて、それからハプニングがありました。勿論、オノ・ヨーコが東京に戻り、ジョン・ケージも東京に来ました。それで,フルクサスについて、ハプニングについてより知りました。ハプニングについては,彼らに会って知りましたが、もっともパフォーマンスらしいハプニングは篠原有司男のボクシング・ペインティングです。二つの流れがあって、一つは表現主義的な,ハプニングで他はより知的なフルクサスです。

私は実際、アラン・カプローと知り合いました。ハーバード大学の夏期セミナーに参加した時、彼は客員講師の一人で、彼のアイデア、観客参加のパフォーマンス、あるいはハプニングについて好きになりました。彼は,表現主義的ではなく、ジャーナリストがそういうストーリーをつくりあげました。 あなたが話しているのは、ハプニングか,フルクサスですか。

AK:私はあなたの映画がニューヨーク・シーンに東京で起こっていたことのいくつかを持ち込むことの助けになったかどうか、興味がありました。

TI:ええ、特にAi(Love)はオノ・ヨーコの音楽があり、ヨーコがニューヨークに持って来て、ジョナス・メカスによって、「その美しさ、オリジナリティ、映画詩によって際立っている、ジャック・スミスの『燃え上がる生物』に匹敵する」と絶賛されました。
またイエール大学でAi(Love)を上映した時には、あまりに多くの学生が会場に押し寄せ、暴動のようになって、ニューヨーク・タイムスに「千人の暴徒が『エロ映画』(スキン・フリック)を求めて、日本の映画の上映を妨害」と次の日に報道されました。(1966/10/22)*(11)

AK:土方は、最初言ったように,沢山の映画に出演しています。土方のパフォーマンスの記録から、劇映画まで、特に記すべきは、石井輝雄の映画ですが、これらの後につずいた映画監督たちが、土方と仕事をする上で、あなたの経験を参考に、相談に来たことはありませんか。

TI:何の相談に?

AK:土方を撮影した経験から、撮影上、パフォーマンスを如何に振りつけるかなど。

TI:彼らは直接、土方のところに行ったでしょう,誰も私に聞きに来ませんでした。また,彼らは私のことを知りません。

AK:それはひどすぎる。用意して来た質問はすべて終わりました、ほかに土方と仕事をした経験或はこれらの映画の制作に関して、言っておきたいことなどありませんか。

TI:土方のすべてのパフォーマンスを見た訳ではありませんが、土方は、初期の、始めた時期が一番優れている。それは私の個人的なつながりによるでしょうが、初期の作品がより興味深い。彼には長いブランクの期間がありましたが、ブランクのあとも、初期の作品を上回ることはなかった。 今、舞踏はより商業的な産物になっています。そして舞踏は土方が試みたものとは大変違います。

AK:土方は墓場から起き上がってくるでしょうか。

TI:笑う)分かりません。

(飯村隆彦訳)

アーロン・カーナー(Aaron Michael Kerner )はサン・フランシスコ州立大学、映画学部準教授   top

訳注
*1「あんま」と「バラ色ダンス」はサン・フランシスコのCanyon Cinema, とニューヨークの the Film-Makers' Cooperative.から配給されている。[また、両作品をひとつに収録したDVDが飯村隆彦映像研究所、http://www.takaiimura.com/salej.htmlから発売されています。飯村付記]
*2 Trinh T. Minh-ha, When the Moon Waxes Red: Representation, Gender and Cultural Politics (New York: Routledge, 1991),p. 34.
* 3 Trinh T. Minh-ha, When the Moon Waxes Red: Representation, Gender and Cultural Politics (New York: Routledge, 1991), p. 34.
* 4 「疱瘡譚」(1972 年、30 分バージョン、大内田圭弥)は「ストレート」な公演記録で、最初の同時録音による舞踏映画。
*5「あんま」の音楽つきの非公認のバージョンが出回ったことがあり、2007年の[音楽つき]のバージョンを除いて、飯村は音楽の使用を認めていない。また「あんま」の音楽のないVHSバージョンを一時、発刊したが、これは現在では中止され, 唯一の公認されたバージョンは足立智美の音楽のあるDVDである。
*6 例えば、 Collected Writings of Takahiko Iimura (Rockville, MD.: Wildside Press, 2004).がある。
*7上野は東京の1区域。
*8「あんま」は1963年に制作され、1年後に「マクルーハンの「メディアの理解:人間の拡張」(Understanding Media: the Extensions of Man, (McGraw-Hill))は出版され、その日本語翻訳は1967年。(飯村付記)
*9 DVDのカバーには、ニコラ・ビロドレの「これらの映画をとうして、土方によって創造された暗黒舞踏は通常関連ずけられるドイツの表現主義よりも、挑発的で、シニカルで、不条理なフォームによって、ネオダダに近いということが、はっきりした。」とある。
*10 元藤嘩子は土方の妻で、舞踏ダンサーであるが、前身はバレーで、土方のスタイルとは大変異なる。
*11 Robert Steele, "Japanese Underground Film," Film Comment (Fall-Winter 1967): 74-77.参照