日本語の構造における視覚性

飯村隆彦


 日本語のなかで使用する中国の文字(漢字)の視覚性について、これらの形態が象形文字的(イデオグラフィック)であると言われてきた。しかし、漢字の視覚性ではなく、中国語とは異なる日本語の文章構造が、ひとつのユニークなコミュニケーションのシステムを形成しているというのが、私の考えである。

 日本語では、言葉の順序に関する限り「I you see」(私はあなたを見る)といって英語における「I see you」を表す。ふたつの言葉における目的語の位置の違いは、コミュニケーションにおける優先順位を示している。日本語では、目的語の「you」であり、英語では、動詞の「see」である。日本語では、主語は目的語に直接結びつくのに対し、英語では、目的語の前に述語がくる必要がある。この文のように、主語が「私」である場合に、英語では自我は目的語との距離をおかなければならない。これは、日本語では反対に主語と(述語によって仲介されない)目的語が統語論的(サンタグマティック)に接続するので、自我が前−確定的であると考えられる。英語は主語がもっとも強調されるが、日本語ではそれは必ずしもあてはまらない。

 過去、数年の間、私は言語とビデオの構造的な関係を研究してきた。この場合の言語とは、英語を基礎として考えていたが、当然ながら、日本語がつねに頭にあった。ビデオは比較言語学の研究を行なうには、ユニークなシステムである。映像と音を同時的に記録することが可能であり、その(自己参照的である)クローズド・サーキット(閉回路)のシステムでは、カメラ(観察者)は、モニター(被観察者)によってフィード・バックされる。したがって、モニター上の映像は撮影された対象(目的語)を示すばかりではなく、撮影している主体である観察者をも示すことができる。これは、文章にも似た構造を形成するものである。言語において私がかかわることも、(すでにあげた例が示すように)対象としての単語ではなく、ひとつの文であり、その構造である。

 セルゲイ・エイゼンシュテインは、(映画における)イメージと、言語の関係を深く論じた最初の作家である。モンタージュ理論の創造の先駆者であるエイゼンシュテインは漢字の研究を通して、その象形文字的な要素を詳細に分析した。実際、そのモンタージュ理論は、この分析から発展したものである。

 たとえば(これは必ずしもエイゼンシュテインの例ではないが)「日」と「月」の結合が「明」を形成する。この結合の方法をエイゼンシュテインは映画における編集、モンタージュに適用した。もちろんエイゼンシュテインの理論は、この例よりも複雑であるが、その主要な興味が、上の例に示されるように、対象(オブジェ)としての単語(ワード)であり、それが、イメージとしての個々のショットにあったことは変わらない。その理論では、単語をショットに結びつけ、ショットはちょうど単語が文章のコンテクストからは分離されたようにひとつの単一な写真的なオブジェとして扱われた。

 したがって、エイゼンシュテインの理論では、単語とイメージ(ショット)の間にアナロジーがあるが、その関係は、より大きな内部構造であるコンテクストにまではかかわらない。それは、単語と文との相互関係と、観察者とショットとの相互関係である。この理由で私にとって、エイゼンシュテインの同時代の作家であるジガ・ヴェルトフにより興味があり、彼の『カメラをもった男』の作品で示されたように、その「キノ・アイ」の理論は、私の関心により近いものである。  ヴェルトフは、カメラ・アイと─『カメラをもった男』におけるように、観察者と被観察者とが関連した(レンズと眼の二重撮影を想起せよ)観点から論じている。

 ビデオで私が試みたことは、イメージと言語との関係においては、観察者である「私」(主語)をそのシステムと文章の不可欠な一部として包含することであった。これは、ビデオのクローズド・サーキットのシステムに位置づけられた観察者と被観察者の双方にかかわる「見ること」の構造である。映画の場合とは対照的に、(カメラとモニターを同一のサーキットにつなげる)クローズド・サーキットのビデオは観察者と被観察者を同時的に見ることが可能である。これは同一の時/ 空間におけるフィード・バックである。観察者と被観察者との関係は、言語レベルではすでに引用した「私はあなたを見る」のように、「私」と「あなた」の関係としてとらえられた。この同じ文が、カメラとモニターの間の「私」と「あなた」の関係として、クローズド・サーキットのシステムに適用された。カメラを見る人は、観察者である「私」としてばかりではなく、被観察者としての「あなた」としてもとらえられる。

 これは、ひとつのイメージが、発話(スピーチ)との関係で、観察者であると同時に被観察者としても機能することを意味する。そしてスピーチはイメージと同等な重要性をもち、イメージに対して、分離して(非同期的に)機能するか、同一に(同期的に)機能する。「私」と「あなた」の言葉は、モニター(スクリーン)に映っているかいないかによって、その役をスィッチし、互いの位置を変換する。  これは、たとえば、画面上(ピクチャー)で「私」といい、オフ・スクリーン(画面外)の声が「あなた」という場合、あるいは逆に、画面上(ピクチャー)で「あなた」といい、オフ・スクリーンの声が「私」というように現れる。これらの言葉は、画面と異なった組み合わせをもち、観察者と被観察者の役は、その組み合わせの違いによって異なる。それは観察の方向の相違であり、主語から目的語、目的語から主語への方向が相互関係にあることを示している。したがって、同一のイメージは、言葉の指示によって異なった意味をもつ。もちろん、同一のスピーチが異なったイメージを指示することも可能である。

 これらのすべてのことは、イメージと音が異なった次元で、同時的な操作をすることを可能とするクローズド・サーキットのフィード・バックのコントロールを使用して、ビデオ・テープに記録された。したがって、観察者と被観察者の関係は、往復した構造をもつ。  私はアメリカ人の観客に見せるために英語を使って制作しながらも、日本語はつねに私の頭にあって、英語と日本語の比較を避けることができなかった。もっとも興味のあったことは、日本語では、主語の次に直ちに目的語がくることであった。私が、カメラで被観察者である「あなた」に向かっているとき、ビュー・ファインダーを通して見ているのは「あなた」である。この状況を言語化するならば、日本語の順序である「I You see」は、英語の「I see you」よりもより近い。日本語では、述語より以前に、目的語がまず確認されなければならない。言い換えれば、日本語の構造は、英語のそれよりも、カメラ・アイに近く、日本語は、視覚的な客観性に適応した言語であるといいうるかもしれない。

 実際、私はしばしばイメージを同時に英語と日本語で記録しながらも、そこに遅延(ディレイ)のあることを認めた。最初に、言語のイメージとの関連で、次に英語の日本語との関連でそれぞれ前者が後者に対して遅延があった。何故なら、英語では、目的語の前に述語を伴うからである。

 さらに非形式的な日本語では、話でも書く文でも、主語を省くことは普通の応用である。これは、カメラ・アイにもっと近い。カメラ・アイは、誰が主語であるかは決して指示しないからである。 「(私は)あなたを見る」(「(I)You see」)と主語を省略して言うとき、ある場合には誰が主語であるかは明らかである。しかし主語のアイデンティティについて曖昧な意味合いの可能性もある。これは、カメラ・アイ/イメージが主語なしに現実化して、しかも充分にコミュニケーションできるということに似ている。

 私が1975年と76年に制作したビデオテープである『Observer / Observed』と『Observer /Observed / Observer』は「I see you who is shooting me」(私は私を撮影するあなたを見る)と「I see myself who is shooting you」(私はあなたを撮影する私自身を見る)の基本的なパターンから発展したものである。  これらの複合文は、二台の向きあうカメラとそれらを互いにフィード・バックした二台のモニターによって設定された。したがって、文章の正確な変換が可能であり、文章は誰が誰に対して撮影しているかによって、交換することが可能であった。作品は前もって図式化されたプログラムによって制作され、ビデオ化された。top

(Reprinted from Art & Cinema, December, 1978, New York, pp.16-22)