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飯村隆彦のフィルム
スコット・マクドナルド


 この時代の飯村の作品を語るのに欠かせないのは『1秒間24コマ』だろう。時間と空間の実験についても、光と影、視覚と聴覚に関しても、また観客への要求と潜在的な報酬の種類についても、この作品のオリジナル版(1978年に短縮版が作られている)は飯村作品の精髄である。『1秒間24コマ』のオリジナル版の構造は『+&―』と『1秒から60秒まで』よりずっと複雑だ。(8) 映画は1秒間の分数シリーズとクロミとスヌケの断片を交互に見せてゆく。映画が進むにしたがって分数は1/24から24/24に増大する。それぞれの分数はスヌケとクロミとの比率を示しており、例えば1/24と1秒間出ればその後ろには1コマがスヌケで23コマがクロミのフィルムが1秒現れる(後半部では、1コマがクロミで23コマがスヌケとなる)。2/24と出れば2コマがスヌケ(後半部ではクロミ)が続く、というわけである。
 それぞれの分数のシリーズで示され、その長さは最初の1秒から終わりの1秒まで移り変わる分子によって示されるスヌケとクロミに必要な反復の数字によって決定される。例えば初めのシリーズで観客は次のような分数と、1秒間のクロミとスヌケを見る。

(○=スヌケ1コマ;X=クロミ1コマ)
1/24 ○XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
1/24 X○XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
1/24 XX○XXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
1/24 XXX○XXXXXXXXXXXXXXXXXXX
1/24 XXXX○XXXXXXXXXXXXXXXXXX
1/24 XXXXX○XXXXXXXXXXXXXXXXX
1/24 XXXXXX○XXXXXXXXXXXXXXXX
1/24 XXXXXXX○XXXXXXXXXXXXXXX
1/24 XXXXXXXX○XXXXXXXXXXXXXX
1/24 XXXXXXXXX○XXXXXXXXXXXXX
1/24 XXXXXXXXXX○XXXXXXXXXXXX
1/24 XXXXXXXXXXX○XXXXXXXXXXX
1/24 XXXXXXXXXXXX○XXXXXXXXXX
1/24 XXXXXXXXXXXXX○XXXXXXXXX
1/24 XXXXXXXXXXXXXX○XXXXXXXX
1/24 XXXXXXXXXXXXXXX○XXXXXXX
1/24 XXXXXXXXXXXXXXXX○XXXXXX
1/24 XXXXXXXXXXXXXXXXX○XXXXX
1/24 XXXXXXXXXXXXXXXXXX○XXXX
1/24 XXXXXXXXXXXXXXXXXXX○XXX
1/24 XXXXXXXXXXXXXXXXXXXX○XX
1/24 XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX○X

 作品の前半ではスヌケのコマの頭と終わりにビッという音がスクラッチで付けられ、後半ではそれがクロミに付けられる。

 『1秒間24コマ』の構造的複雑さのため、また飯村の作品に対する言葉の明確な説明が欠けているため、観客は作品構造を理解せずに見続けることになる。(9) しかし、誰でも作品の構成を見抜くや否や作品は映画の本質の多様性をかいま見せる。1秒を単位とする24コマの中のあらゆる部分に光と影の持続と位相を体験することもできるのだ。さらに、様々な映画的空間がドラマティックに併置されている。光と影が生み出すコマと上映空間という2つの形態と、分数が表示されたフィルムストリップが生み出す注意を引き付ける2次元空間とが交互に現れる。このような要素に対する飯村の規則的な探究は観客が不断にかつ知的にアクティブな態度を取ることを要求するが、もし観客がそういう態度を取れるなら、映画の形態の明確さと純粋さは実に楽しいものになるのである。

 この10年間、飯村は映画作りとフィルムのインスタレーションと同時にビデオ制作とビデオインスタレーションも作り続けている。また彼は様々なテーマについて著作活動も行っている。1985年にはオノ・ヨーコの人生と創作についての詳しいドキュメンテーションも東京で出版した。最近のいくつかのフィルム作品、『シンク・サウンド』 (1975年、 78年。二つのバージョンがある)、『反復し逆行する時間』 (1981年)、『トーキング・イン・ニューヨーク』 (1981年)、『トーキング・ピクチャー(映画を見る構造)』は、1981年に彼が『モデルズ』で展開した厳格で体系的なアプローチをさらに広げ、初めの二つの作品ではエレガントな時間芸術を作り上げ、後の2作品は音とイメージの関係性に焦点を当てている。他の作品、『1コマの長さ』 (1977年)、『間 (Intervals)』 (1978年)、そして彼の一番新しい作品『間:竜安寺石庭における時/空間』 (1989年)は概念的かつ視覚的単位としての時間と空間である東洋的概念の「間」に対してフォーカスを当てている。『1コマの長さ』は2つの完全にシステマティックなセクションから始まるが、その後ろには私にはどのようなシステムにも組織化されないと思える一つのセクションが続く。「間」 (1978年)は『1コマの長さ』の3番目のセクションの非秩序性を徹底して一つの完結した映画として作ったものだ。黒いスクラッチの線が入ったスヌケと白いスクラッチの線が入ったクロミ、そして黄色と青に塗られたスクラッチの線があるリーダー、そして二種類のサウンド(そしてサイレント部分)がアレンジされて、観客がその要素そのものと同じ見かけは全くランダムに空間化された要素のインターバルに気付くようになっている。しかし『間:竜安寺石庭の時/空間』において初めて飯村は「間」のコンセプトを明らかにする方法を見つけた。皮肉にも新作のフィルムを非映画的な芸術に委ねることで、彼はフィルムを使って効果的に概念を具体化することを発見したのである。

 『間:竜安寺石庭の時/空間』では初めてアメリカのスポンサーが付いた(実際には飯村と磯崎新の共同作品である)。MMA(メトロポリタン・ミュージアム・オブ・アート)の映画・芸術プログラムとJ・ポール・ゲティー財団から資金を得て作られた16分のドキュメント映画であり、16世紀の初めて造られた京都の竜安寺の庭園に対する解釈である。作品の初めにこのような説明がある。「砂利が敷き詰められた四角い空間の中に15個の石が群れを成している」飯村と磯崎の説明によれば、日本の芸術作品の多くに反映している「間」の概念は「竜安寺の庭に実現されている」のである。

 映画の説明が終わった後、庭園のロングショットが捉えられる。それに続いて庭と「間」の概念について詩が現れる(この作品に何度か現れる詩は磯崎によって書かれた。最後の詩に彼の署名が見える)、そして3度庭を横切る地面すれすれの長い移動ショットの第一ショットが続く。石の群れは移動ショットに句読点を付ける。それは右から左へと流れてゆく。2番目の詩の次に2度目の地面すれすれの移動ショットが続く。同じ方向に同じところから動くが、よりワイドレンズでより速いスピードになっている。この2度目の移動ショットの後、戦略が変化する。石のやや上のほうから5回に渡りゆっくりとしてズームがそれぞれの5つの石の群れに向けられる。3度目の詩の後、地面すれすれの最後の移動ショットが続く。最後の詩の後は庭全体を写す2度目のショットであり、これはオープニングショット逆の方向から撮られている。そして移動するクレジットとなる。映像には非常に反響性のある種々の断続する声と音楽がつけられている。サウンドトラックは映像に対してアナロジー関係になっており、しばしば特別の視覚的な動きに交差する(例えば5回のズームそれぞれの初めによく似た音を聞くことができる)。

 これは庭園のドキュメントだが飯村と磯崎はドキュメント以上のことをやっており、非常に巧みな作品となっている。作品は、異なるメディアによって庭の原理を示している。フィルムの フレーム は視覚の空間であり、15 分の時間の継続の中でオブジェ/映像の出来事が アレンジされている。実際『間:竜安寺石庭の時/空間』は、地面すれすれの移動ショットのアナロジーとなっている。庭園のイメージ、言葉の群れ(言葉は石と同じようにその空間配置が表現的であるよう、言葉と言葉の合間が言葉そのものと同じく重要になるように構成されている)、石の動きがイメージを通り過ぎるように、音と静寂の瞬間は観客を通り過ぎる。事実最後まで我々ははっきりと時間を意識し、時間が空間のオブジェの運動を計る尺度となっているので、移動するクレジットまでが別のもののように見える。ちょうど「間」という概念の視覚行為に響きあっているようだ。何よりも『間:竜安寺石庭の時/空間』は、古典的日本庭園と「間」という概念の素晴らしい紹介になっており、またそれは飯村の初期の作品の中心的な次元にあったものである。
(飯村隆彦/訳)


(1) 「エール・デイリー・ニュース」。飯村の初期作品への論考とともに以下の文に含まれている。  
Robert Steele, “Japanese Underground Film”, 「Film Comment」誌、 Fall, 1967年, pp.75-79
(2) 注目すべき例外は『フィルム・メーカーズ』 (1966-70年)であり、これは60年代後半のニューヨークにおける自主映画シーンに対する飯村の探究の記録である。この中で彼は5人の映画作家、スタン・ブラッケージ、スタン・ヴァンダビーク、ジャック・スミス、ジョナス・メカス、アンディー・ウォーホールのポートレイトと、彼自身の短いポートレイトを描いている。それぞれ個性的な行動をとる彼等の姿を彼等自身の映画スタイルの中で捉えようと試みている。
(3) 『フィルム・ストリップス II』(もとのタイトルは『歯には歯を』)の制作手続きについて7ページ分の記述の写しがアンソロジー・フィルム・アーカイブ・ライブラリーの飯村ファイルの中に収められている。住所は32-34 Second Avenue, New York, N.Y.10003
(4) 撮影と再撮影の間のプロジェクターとカメラのタイミングのわずかな違いのために、飯村の実験の各部分から生まれるコマの数は、純粋な計算通りにはなっていない。1秒間に16コマとして80コマのループフィルムを回し、1秒間に64コマでカメラ撮影したとしよう。4倍になるのだから80X4=320コマが生じるはずだが実際の操作によって生まれるのは303コマである。
(5) 飯村英語で書かれたものは作品の複雑さを明らかにしようとしてもしばしば読者にフラストレーションを生じさせる。例えが『フィルム・ストリップス I』の手続きに関する記録は実に丹念だがいくつかの特性は不明のままである。
(6) 私がいつも魅了されるのは、異なった背景から生まれる異なった目的と期待を持つ映画作家たちが同じ関心を共有し同じ効果を展開する作品を作ることである。例えば、『イン・ザ・リバー』における男の沐浴のフッテージについての飯村の詳細な分析は、ホリス・フランプトンの『マゼラン海峡/Straits of Magellan』『春分/Verna Equinox』と多大に共通したものになっている。フランプトンは、裸の女性が堂々としたほとんど瞑想的な歩行をするというシンプルな行動のフッテージに詳細な分析を加え、それを再秩序化している。
(7) 『2分46秒16コマ(100フィート)』のためのサウンドトラックは、飯村がタイトルショットに示しているように、スプロケットホールである。それらが生み出す正規のリズムは聴覚的なタビュレーション(一覧表)を作り、それがフリッカーする数字とともに視覚的なダビュレーションを再び強調するのである。
(8) 視覚的にシンプルな非映画的作品については飯村は特殊上映のために個々の作品のバージョンを作っている。本文で触れた『1秒間24コマ』のニュー・バージョンは近代美術館での上映用に現在制作中である。私は『シンク・サウンド』の2種類の改訂版を見たことがある。
(9) 飯村の序文「フィルムは1秒間に24コマ進む。各タイトル (X/24)は1秒の分数であり、それは1秒間のフレームの数(クロミの中のスヌケかまたはスヌケの中のクロミである)を示す。コマは1秒の間に1番目から24番目に移動する。音はそれぞれにコマにシンクロしている」この序文が瞬間的に写される。

(「After Image」誌より補筆採録、1978年4月号、ロチェスター, ニューヨーク. pp.8-12)
(「飯村隆彦、フィルムとビデオ」、京都文化博物館刊、1990年、原文はアンソロジー・フィルム・アーカイブス刊、ニューヨーク、1990年)


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