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飯村隆彦のフィルム
スコット・マクドナルド


 この作品の最後のセクションは特に飯村のメソッドの一面を明らかにしている。それは彼が必然的にスヌケのリーダーを使うその選択にある。このセクションには何も写っていないので、彼がリーダーを計測する時か、もしくは上映時にくっつけた小さな引っ掻き傷と埃に観客の注意が注がれることになる。もちろん、我々の通常の映画体験ではこれらをふるいに掛けて見ているので、この「汚れ」は偶然に付いたものと考えるが、ジョン・ケージ的な言い方をすれば、それにもかかわらずこれもイメージであり、特にこの際その明白性はスヌケと直接係わるという飯村の意識的な選択からきているのだから、観客はこの作品を考えるとき汚れをも含めることが出来る。飯村作品の「汚れ」の明白性は私にとって特別な意味を持つようになった。1秒間に24コマの脈動とフレームによって枠取られた四角い光線の知的精神的意味は物質的存在の衰微と融解の中に存在しているように思われる。根本的にフィルムの埃と引っ掻き傷はフィルムという基本的な物質的性質を持つものの指標であり、その指標は上映回数が増えるたびにさらに明白なものになってくるわけである。(8)

 『モデルズ・リール1』の別のセクションは飯村がリーダーに数字を割り振ってゆく異なった基本的方法の展開のために別の経験と発見が生まれている。例えば、クロミの中にスヌケのコマを使い、またクロミに垂直の引っ掻き傷をつけ、またある例では音を使用している。事実『モデルズ』や近作での音の使い方はイメージ・トラックとサウンド・トラックが全く対等のウェイトを占めているという点で映画史の中では非常に珍しい例となっている。『モデルズ』の「映像」がそうであるように、サウンドが直接つけられているところにもある。彼はサウンド・トラックの上に面や線をスクラッチしているのである。

 私が好きな『モデルズ』のセクションでは『タイムド1、タイムド2、タイムド3』で、これは視覚的なものと音が極めて効果的に織り込まれている。視覚面については各セクションは10秒のスヌケとクロミから構成される漸進的な形式が取られ、まず光の増大と暗闇の減少から始まり、次いでそれらが逆になる。『タイムド1』のサウンド・トラックに直接スクラッチされたビッという音が毎秒毎に耳に入ってくる『タイムド2』では10秒毎に、『ダイムド3』では100秒毎に、すなわち作品の中間と最後に聞こえる。音を規則的な計測の変化において使用することは、『2分46秒16コマ(100フィート)』で展開されたように時間の小さな単位を意識させることになるが、一方で『タイムド1、2、3』はさらに彫刻的で環境的な総合体験を作り出す。フレームには目に見える形では数字も垂直的なスクラッチもないために、また光と闇との交替は実にドラマティックであるために、観客はまず除々に空間と対象と観客を意識し始め、次第にそれらが暗闇に漸進的に変化するのを知るのである。

 『モデルズ、リール2』はこれと別の探究だ。X文字の様々な変化と1から100までの数字の変化、垂直のスクラッチのポジとネガ、そしてスヌケとクロミの交替に観客を巻き込み、フレームの存在と不在を意識させ上映空間の体験を異化させるのである。『モデルズ』の8つのセクションにおける多くの最も興味深い探究は、全体として見たとき飯村の印象的な作品となっている。

 過去5年間の間に飯村が『モデルズ』の中で探究してきた関心は『+&―』と『1秒から60秒まで』『1秒間24コマ』によって最も洗練されている。『+&―』は観客に時間の足し算と引き算を体験させる。まず、観客は映画の最初の半分はクロミを見る。初めにコマに+の記号がスクラッチされ、次のクロミが現れる。次いで=の記号が、そしてこの二つを足した時間分のクロミが現れる。スヌケのひとコマを挟んで次の等式が提示される。1+1=2、1+2=3、1+3=4、というふうに足し算が進み、計10になるまで続いてゆく。そして次の組みは、2+1=3、2+2=4、2+3=5と始まる。こうして最後の足し算9+1=10に至る。ひと組みの足し算が完成するたびに、そこまでの全ての足し算をタイプした紙を10秒間提示する。『+&―』の後半は引き算の連続であり、クロミの後“―”記号が現れ、そしてスヌケとなり、=の次に引き算の答えが出てくる。引き算も連続して現れ、最後の2-1=1に至る。

 『タイムド1、2、3』のように『モデルズ』と『+&―』は通常の映画体験を縛っている拘束から観客を解き放して映画的時間空間の多彩さを感じさせるのである。“イメージレス”映画である『フリッカー』『アーヌルフ・レイナー』『光線・銃・ビーナス』ですら、観客が画面に注意を集中することを要求するものだが、『+&―』は観客が様々なやり方で参加する豊富な体験なのである。時間と空間の探究はほとんどが光と影の中で誘導されるため、ひとコマ毎の+、―、=は一瞬の閃光として知覚されるとしても、一度等式の展開がはっきり理解されたなら、観客は何が起こっているのかを体験するためにスクリーンを見なくても済むのだ。実際きちんとして映画館に座る必要さえない。『+&―』は観客が部屋の中で立っていようと座ろうと動き回ろうと好きなように時間と空間の変化を体験しようと一向に構わない映画なのである。この点において私の知るかぎり同じような許容度を持つ作品にアンソニー・マッコールの『円錐形を描く線』 (Line Describing a Cone)と彼の円錐形シリーズのいくつかの部分がある。

 映画館の椅子に座りスクリーンに集中し没頭して見ることに対して映画作家が何かを報いてくれると思っている観客にとっては『+&―』は(特に飯村の提出する足し算と引き算の完全な組み合わせは)相当なフラストレーションを生み出すだろう。しかし明らかに、飯村が映画体験の全てと考えて二つの等式を選んだのは、誰かを楽しませるためではない。多くの芸術作品がそうであるように、『+&―』は観客のうちの何人かがしなやかな見方で映画と関係する方法を広げ、そのことによって飯村が用意した体験から何かを感じ取るよう、それを期待して上映されるのである。

 もちろん飯村の最近作が観客に提出する問題に注意を払い過ぎると、その同じ作品が多くの観客を楽しませるものだという事実が見えなくなるだろう。1976年に『1秒から60秒まで』をUTICA大学で上映した時がそのいい例である。この映画が始まるのを待つ50人の観客は、すでにその前に1時間にわたって非一般的な、見るのに努力を要する映画を見終わっていた。しかし驚いたことに、彼等は卓越した知性をもっていたらしく、映画が始まるとすぐに素早く流れていく数字とクロミに熱中し始めた。数秒後には多くの観客がその数字はある規則に従っており、数字のあるコマを分断するクロミは数字と特別の関係をもっていることに気付き始めた。彼等は、映画の進行規則について様々ななアイデアを交換し始めた。そして5分もするうちに、数字は組になって進みそれぞれの秒数が提示された後に現れて組みをなす数字を分断するクロミが、組をなす二つの数字の始めの秒数分が正確に現れることを確信し始めた。つまり組の数字が9と0.45であれば、それに続くクロミの持続時間は9秒となる。この関係を気付いた観客は秒数の数字の意味について議論し始める。最後にある観客が「分かった」と声をあげ他の人々に説明し始めた。各組の秒数はそこまでのクロミの持続時間を合計したものであり、各組の頭の数字に記された時間が足されている、と言うのである。こうしていろんな関係が明瞭になれば、作品全体が断言の利くものになってくる。全ての観客が前もって数字と持続時間の長さを知り得ただけでなく、すぐに誰かが計算機を使いこの作品がいつまで続くか決定さえした。このタイトルは我々が1から60までの数字(そしてそれに続く持続時間も)を見て、映画の長さが1+2+3+4・・・・・+60、つまり30分30秒であることを示している(正確にはほぼ31分30秒。というのは数字が示されるときの持続秒数は計算に含まれないからだ)。作品構造の全てを初めの10分ほどで理解した観客には、この後約20分の数字と暗闇の体験が残ったのである。

 ここから観客が別々の行動をとり始めた。上映会場に残って、次の数字が現れるまで1秒毎に手を叩き、正確に計れるかどうか試そうとする者もいれば、午後の上映について観客同志でおしゃべりする者もいる。(スクリーンを見ていない観客でも成り行きは理解できた。というのは次第に長くなっていくクロミの上映時間の合間に数字が現れるとそれが一瞬だけ光り、また一対の最初の数字が現れるとビッと音がするからだ)。またある者は会場の外に出て煙草を喫ったり、時々中を見て予想通りに映画が進んでいるかを確かめている。表へ出てコーヒーや冷たい飲み物を買ってくるものもいる。こうして『1秒から60秒まで』を最後までみたものはほとんど居なかったにもかかわらず、私が知るかぎり全ての観客が十分に映画を体験し、飯村作品の時間と正確な進行をはっきり理解したのである。上映が終わってから明かりがついた後も30人を越える観客が飯村を囲み、ビデオ化した作品をみせてもらったのである。


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