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『フィルム・ストリップスII』がエキサイティングなのは、飯村が映画を制作する上で誰も試みなかった複雑なプロセスを展開して、興味をそそる視覚体験をもたらしただけでなく、苦渋の時代を力強く記録し未来を警告する暗示的な作品に仕上げられているからである。映画の初めにフレームの中央のイメージが素早く転回するために、観客は撮影された映像が入っていることさえ気付かないだろう。その代わり、エネルギーの脈動に一種の核分裂の過程を見るかもしれない。イメージは次第にはっきりと分かるようになり、黒人や警官やサインや旗などが見えてくるが、それがデトロイトでの暴動だと断定できるほどではない。このためにこの暴力のイメージはより広範な社会的政治的紛争の記録に見えてくる。例えば、映画の中で「ボリバー」と読めてくるサインは少なくとも、その闘争の一部はラテン・アメリカでのものであることを示す。最後の数分フリッカー効果が生れるところまで進むと、飯村は観客に対して何かが実行されないかぎり個々のイメージによって暴かれた闘争が破壊的な核戦争によって終結するだろうと警告しているように見える。この考えは最後の数分に特に強められ、そこでフリッカーは楕円と円の光から生まれるが、それは核爆弾のキノコ雲を連想させるのだ。彼のコンテキストではイメージを生み出す類例のないプロセスが意味をもっている。もし彼の警告する大災害を避けたいのなら、彼の新しいアプローチは我々が必死になって開発すべき新たなメソードを暗示しているようだ。
別の形式的探究は『イン・ザ・リバー』に見られる。彼は再度再撮影を使っているが、ここではスクリーンは小さい16 ミリ編集機のビュアーである。様々にカメラ・スピードを変え、カメラ内でのスーパーインポジションを用いながら、飯村がカトマンズで撮った聖なる川で身を清める男のフッテージを分析する。興味深いのは、川の流れの中で男が注意深く沐浴する行為と、カメラを通したフィルムの流れの中で飯村が注意深く男の肉体的には単純な行動を分析することとがパラレルな関係を生み出していることだ。男が感じている精神的な幻覚は16ミリのビュアーのフリッカーが生み出す曼陀羅状の輪によって反映されている。瞑想体験は作品に提示され、こうしてそのミニマルな行為と静かなペースは観客が瞑想に入る可能性を与えるのである。(6)
『シャッター』 (1971年)で飯村の形式的関心はさらに一歩進むことになる。『シャッター』を作るために彼は『フィルム・ストリップスII』に手を加え、そして『ホワイト・カリグラフィー』以来初めて全ての再現的なイメージを削除した。2種類のプロジェクターのスピードを変化させながら、彼はフィルムの入っていないプロジェクターから投射する光をスクリーンに当てて撮影した。カメラスピードとプロジェクターのシャッターの開閉が同期しないために、出来上がったフッテージに(初めはポジで次はネガでプリントした)フリッカー効果が生まれ『フィルム・ストリップスII』の終わりのフリッカーよりもずっとパワフルになっている。それが目に訴える効果はトニー・コンラッドの『フリッカー』によく似ている。『シャッター』に現れるイメージは白と黒に限られているにもかかわらず、フリッカーの様々なリズムが作品の部分に微妙な色彩を生み出している。明るい紫と薄い黄色の混じった色がちらついたり、またある場合は青い線がイメージの上で揺れ始める。フリッカーが生むもう一つの効果は図を地の関係の変化である。しばしばイメージの白い部分が黒い部分に現れて動く一方で、黒い部分のほうが動くようにも見える。『シャッター』の多彩な効果は、映画のプロセスと素材の視覚的な能力を広げようと試みられた近年の多くの作品の中でも一段と魅力的なものである。
1972年には彼のキャリアは私には最も興味深く思われる第3期に入ってくる。彼は既に『フィルム・ストリップスII』や『シャッター』よりさらに基本的形式に向かって探究を深めていた。60年代の飯村は「意味のある」「美しい」「面白い」イメージを集めたり作ったりする映画作りの形式に対して次第に疑問を抱くようになっていた。記録のための機械としてカメラを用いることは物質社会のテクノロジカルな延長でしかなく、実際の物質を手にいれることのできない、あるいは物質的な物事を経験できない人間がそれを間接的に、つまり写真的な印象として蓄財する一種の貧者の物質主義ではないかと思うようになった。そこで彼はこの手の映画作りには背を向け、出来る限り写真的なイメージを使わないメディアの本質の探究に向かい出した。スヌケ[編集用に作られた透明のフィルム]とクロミ[編集用に作られた真っ黒のフィルム]のリーダーを用い、そこに直接数字や基本的な形を様々な方法の書き込みやスクラッチによって刻むことで、彼は映画制作の新しい方法を生み出した。それは映画的なイルージョンの全ての形式『シャッター』や『フリッカー』のような映画が観客の網膜に直接生み出すイルージョン形式からさえ離れようとする試みだった。
題名が示している通り『モデルズ』は飯村に特有の非映画的なものへの関心を示している。これらの関心の最も肝心な部分はフィルム体験のリアルな空間と時間に対する彼の探究である。『モデルズ』はこの探究の8つの異なる作品を提示し、それぞれが基本的な変形の一組となっている。『モデルズ』の最初の作品を記述することで彼のメソッドとその発見のいくつかを明らかにしてみよう。
『モデルズ』の初めの作品『2分46秒16コマ(100フィート)』には3本のスヌケの100 フィートフィルムが現れるが、それぞれに彼は番号を打っている。最初のフィルムは1コマごとに1から24の数字が打たれている。それが1秒24コマで映写されるとき、数字が通過するのが見えるが一つ一つは特定できない。その代わりに視覚的なコラージュが生まれ『ホワイト・カリグラフィー』を思い出させる。しばらくたつとそれぞれのコマに数字が打っていることが分かり、1秒に繰り返される24の数字のリズムが感じ取れるようになる。この結果、我々はフィルム体験の基本的鼓動に対して異常な程に敏感になる。(7) 次の100フィートには1から60の数字が一つづつ24コマごとにプリントされている。これは全く別の体験になっている。フリッカーする数字に我々の注意が巻き込まれるのではなく、一秒ごとの数字の出現が光の持続時間を計測しているように見える。さらに、基本的時間の単位に我々の集中力が全て注がれるのでなく、四角の枠取りに対する精神的かつ知的な可能性を感じるようになる。フレームがもともと錯覚としての空間的深さを持っていることが明らかになるだけでなく(最初のフィルムで数字がフリッカーすることによりイメージの2次元性が強調される一方、ここでより長く光が見えることで「フレームの中を見る」余裕が生まれる)。フィルム体験の現実的な空間、フィルムが投影される部屋の空間がとりわけ明確なものになってくる。最後の100フィートは分刻みで計測される。「1」という数字が最初の1分の終わりに現われ、「2」が次の1分の終わりに現われる。前の2本の100フィートフィルムで細かな計測が終わった後なので、この3本目では2つの矛盾した視覚効果、つまり我々が1分1分を現実に体で感じる非常に長い時間と、個々のフレームも毎秒の時と共に実際には知覚出来ないという意味で非常に短い時間の両方を感じることになるのである。

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