飯村隆彦のフィルム

スコット・マクドナルド


 飯村隆彦は1960年代の初期から映画を作ってきた。彼の作品はどちらかと言えば明確で一貫した発展を示している。1962年から68年まではエロティシズムと社会批判を伴う超現実的なイメージが強く、68年から71年にかけて写真的なイメージを使用し続けながらそれを次第に形式的な方法で展開し始める。71年から78年まで彼は時間と空間のミニマリスト的な探究に力を傾けるようになる。その後、時々フィルム作品が挟まれるが、飯村はフィルムよりもビデオのほうに強くかかわるようになった。それぞれの時代、彼は興味深い作品を作ってきたが、批評家や番組編成者には余り顧みられなかった。初期のエロティックな作品がアメリカに紹介されたとき注目されたのは多くの場合、作品への誤解からである。1966年に彼はエール大学に招待され何本かを上映した「エール・デイリー・ニュース」はこう書いている。

 “昨夜興奮した暴徒のために、アートギャラリーでの日本の実験映画の上映が妨害された。警察発表によると暴徒の数は千人にのぼる。上映は8時半からの予定だったが、1時間前にギャラリーに通じるハイ・ストリートの前に群集が集まり始めた。8時頃には群集の騒ぎは大きくなり本通りに人があふれだす。タクシーがクラクションを鳴らして通ると人々はブーイングで応じますます殺気だつ。

 押し合いながらギャラリーの入口に近づこうとする。何組かの学生グループは「道を開けろ」「ポルノ映画だぞ」と叫んでいる。入口近くにいる学生たちは潰れそうだとうめいている。8時を少し過ぎた頃シネマクラブの責任者であるスタンディッシュ・ロウダーが入口のところに現れ、すでに暴徒と化した群集に呼びかけた「あの下品なセンセーショナリズムで売っているエール・デイリー・ニュースの記事に書いてあるようなものを期待しても無駄です。無責任な騒ぎを続けるのなら上映は中止します。」

 群集は騒ぎを止めず卑わいな言葉を叫んで閉鎖されたギャラリーの入口に突進しようとした。8時45分に5人の警官がドアの前に並び誰もビルの中に入れなくした。通りは大混乱になった。紙くず、ビン、ビール缶が辺りに飛び散った。” (1)

 もちろん皮肉なことにこの時点ですら上映した作品のエロティックな要素はヒステリーを起こすほどのものではなかった。私が見た中で最もエロティックな2本『Ai (Love)』『オナン』だが、これらの作品が今でも価値を有し続けている一方この程度のエロティックな要素は今では珍しくない。『Ai (Love)』 (1962年)はウィラード・マースとマリー・メンケンの『身体の地理学』を思い起こさせる。性交する男女の肉体は、どこが写っているのか分からないほどクローズ・アップで撮られている。そのクローズアップにお互いの身体を絡ませこすり合うやや早回しのロングショットが併置される。この作品が強調しているのは人間の器官が本質的に生物学的性質をもっているということである。また形式的な意味から『ラブ』が面白いのは、部分的に8ミリで撮られ16 ミリにブローアップして作られた劇的な白黒のコントラストと、オノ・ヨーコによるサウンドトラックである。それは断続して聞こえる様々な音とホワイトノイズを思わせる。“シューッ”という音から成り立っている(ヨーコはマイクを窓の外に 出してこのサウンドを拾った)。   

 『オナン』 (1962年)では青年がヌード写真を見るうちに興奮してくる。彼は熱したヒバシで何度もハッとさせるような攻撃をその写真に加える。そして明らかにそれと分かる様子でマスタベーションをする。次に我々が目にするのはベッドの上で転げ回る彼の姿で、彼はとうとう(作り物の材料でできた)大きな卵を生む。その卵を体中にこすりつけたのち彼は外に飛び出し一人の女にそれを渡す。彼女が受け取らないので彼は胎児の形に身を屈ませそのまま映画は終わるのである。『オナン』は女性の肉体を冷淡に利用するエロティシズムには生気がなく本質的に不安をもたらすものであることを示している。男が写真に攻撃する中で暴かれる女性へのサディスティックな態度は、結局現実の女性との関係が彼を永遠の胎児にしてしまうことを暗示している。

 見るかぎり最も興味深い飯村の初期の作品は、この時代の特徴がむしろ少ない『ホワイト・カリグラフィー』 (1967年)だろう。この抽象映画を作るに際して彼は日本で最も古い物語である古事記の文字をフィルムのクロミの上に直接描いた。それぞれのコマに異なった文字が書かれているので、出来上がった映画は絶え間なく変化する網膜的なコラージュとなり、映画の終わりの部分ではある瞬間、クロミで断絶的に中断される。全体として『ホワイト・カリグラフィー』はフィルムによる一種の具体詩であり、彼の第2期、第3期の作品でさらに本格的に展開する世界の前兆となっている。

 このほかの初期作品、例えば『くず』 (1962年)はシュールなイメージを効果的に使って消費する工業社会によってゆっくり進んでいく生態学的な破壊を劇化している。また『リリパット王国舞踏会 No.1』 (1964年)は寓意的なシュールコメディーであり何度も感心し驚かされた。この頃の作品の大半は習作的な空気があるが、60年代後半までにこれらの実験は、飯村が新たな、現在から見ればさらに印象的な経歴を歩んで行くことを可能にしたのである。

 すでに触れたように飯村の中期の最良作品は形式的関心への増大に特徴づけられるものであり、それは『フィルム・ストリップスI・II』 (1966-67年)に最も効果的に現われている。『イン・ザ・リバー』 (1969-70年)と『シャッター』 (1971年) (2)と『フィルム・ストリップス』は一連の作品だ。普通は物語映画と抽象映画の間には再現的なイメージの提示による区別があるものだが、彼の用いるプロセスの形式的な効果のためにここではその区別がつかない。2本の中では『フィルム・ストリップスII』のほうが面白い。彼は作品制作の動機についてこのように述べている。

 “1966年、私がアメリカにきた最初の年、黒人暴動が頻発しているので驚いた。ある日たまたまデトロイトの暴動シーンをテレビで見た。私はそれに強い印象を受け、目的も定めず不規則なスピードでそれをコマ撮りした。何度そのシーンを見ても心に残るものがあった。1970年、日本に帰った翌年に80コマの1シーンだけを使って作品を作ることを思いついたのだ。” (3)

 次の6ヶ月で彼が作品を完成した方法は複雑で異常なものだった。また彼は80コマをループにしてそれを毎秒16コマと24コマのスピードでスクリーンに映写し、それをカメラスピードを変えて再撮影した。毎秒16コマ映写した後、32コマで、今度は24コマで映写、それからまず24コマのスピード再撮影、次に12コマで撮影した。もともと16コマと64コマのスピードで映写され、12コマのカメラスピードで撮影されたイメージは二度目に同じ割合で再撮影され、その最初の再―再撮影部分が最後にもう一度再撮影されるのである。こうしてこのプロセスから、4047コマから1121, 303, 130, 80, 50, 35コマまでの7種類の長さのフィルムストリップが生まれた。(4) そしてこれらはフィルムストリップの異なった長さと、その個々のストリップの画面構成によって数学的にもたらされたバリエーションの複雑なシステムにしたがってアレンジされた。『フィルム・ストリップス II』を初めて見るとコマごとのイメージが極度に素早く過ぎて行き12分後には段々ゆっくりになって最後には何が映っているのかはっきりし始める。(5) 撮影/再撮影されたイメージに元々の映写機の与えた光の効果によって、2番目の一般的な傾向はイメージのスローダウンを伴って同時に起こる。初めイメージはフレームの中央に光が当たった輪の中だけに見える。イメージ変化のリズムは最後まで強いフリッカーを起こし、皮肉にもはっきりしたイメージを見えなくする。


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