「映画:映しだされた絵画」について

飯村隆彦

 日本語で「Movie」は、「映画」と訳される。字義どおりにとれば、「映しだされた絵画」(Reflected Picture)ということになる。この語を訳語として採用した人間が、もともと映画というものをどのように受けとめていたかが窺われる。英語では「Motion Picture(動画)」というが、これは字義にからいえば「動いている絵画」となる。私には「動画」よりも「映画:映しだされた絵画」という語の方が好ましく思える。というのは、私は自分の作品の中で「動いている絵画」よりも、むしろ「映しだされる絵画」の方に関心を抱いているからだ。

 「映しだされる絵画」は運動ではなく状態、それも光を通して映しだされる像の状態が強調される。この状態では動きもまた関わっている。なぜならそれにはあらゆる状態が、動いている状態だけではなく動いていない状態、静止さえも含まれるからである。

 ある時この「映しだされた絵画」について講演した時、聴衆の一人が「映しだされた絵画」というのは、能動的であることよりも受動的であるのだということを言いたいのかと聞いてきた。私はこの語は能動的でも受動的でもなく、その両方が波のように結びつきあった一つの状態を言っているのだと答えた。互いにぶつかり溶け合う波々を、砕く波と、砕かれる波に分けることなどできないだろう。

 私は子供の頃、村祭りで見た回灯籠を思い出す。灯籠の外側の紙に、紙型の魚の影が回っていた。これが、私が「映画」を見た最初だった。実際に「映画」という語は、今の映画が発明されるずっと前から東洋に存在していた(今まだある)伝統的な影絵というものに深く根付いていると私は思う。中国語では「Movie」は「電影画」と呼ばれている。このことは中国人にとって、映画は何に由来するかを物語っている。しかし日本においての「映しだされた絵画」という語は状態というものに、より重きを置いているように思える。

 スクリーンというものは光が反射する場で、そこにフィルムが影を落とし、それが眼で見られる形となる。このプログラムに組まれた作品(「シャッター」1以外の作品、すなわち「フィルム・ストリップス I& II」,「コスミック・ブッダ」,「イン・ザ・リバー」)はスクリーンから二重撮影されている(映写したスクリーンからか、あるいはmovie scope 2 からの)。こうした撮影は、時間によって操作され、 スクリーンの上に映写されたイメージを変形することである。このようにスクリーンから作られたフィルムは「リアルな」イメージというものは持っておらず、映写されたイメージしか持っていない。ここに私は映画の本質を見る。言い換えれば「映しだされた絵画」とは投影された芸術(Projected Art)なのである。このようにして映画は芸術として存在する。
 私の作品はフィルムが映しだされているという状態に存在している。
(中村晋平訳)


原註
1. 「シャッター」はフィルムなしの光のみを投影したスクリーンを直接撮影したものである。
訳註
2.  小さなスクリーンのついた編集機
  
(「飯村隆彦 フィルムとビデオ」、アンソロジー・フィルム・アーカイブス, ニューヨーク、1990年)

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