私がはじめて飯村の映画を見たのは、1964年・・・

ジョナス・メカス


 私がはじめて飯村の映画を見たのは、1964年、ベルギーのKnokke-Le-Zoute実験映画コンクールにおいてであった。私はこのコンクールの主催者であるJacques Ledouxをたいへん尊敬していた。彼は前衛映画の英雄的人物の一人であった。しかし、私にはこのコンクールに出されたアメリカ以外からの作品は皆とても退屈に思えた。思い出して頂きたい。当時はアメリカの前衛映画の黄金時代だったのである。私がKnokkeに持って行ったフィルムの中には、「Dog Star Man」(1)、「Scorpio Rising」(2)、「Chumlum」(3)、「Flaming Creatures」(4)といった作品が入っていた。またGregory Markopulosは「Twicea Man」を携えて出てきた。コンクールに出された全てのフィルムは、これらの大作と引き比べて評価されねばならなかった。

 しかし、これらの大作を前にして自分自身の作品を持ち込んだ二人の映像作家がいた。一人は、Peter Kubelka で彼は「Arnulf Rainer」を上映した。もう一人が飯村隆彦で彼の作品は「Love」だった。私はその作品が大変気に入った。「Village Voice」にこの作品について書き、後でオノ・ヨーコにニューヨークにその作品を持ってくるように頼み、それが実現された。その少し後、1966年に、隆彦自身がニューヨークにやってきた。そして彼のニューヨーク生活、アメリカ暮らしが本当の意味での映画人生、25年に渡る熱心な創作の日々が始まったのである。ここでコンクールというものに対して皮肉を言うことになるが、ちょっと余計なことを付け加えて置こう。優勝したのは「Arnulf Rainer」でもなければ「Love」でもなく、また私がKnokkeに持ち込んだどのフィルムでもなかった...。優勝を勝ち取ったのは・・・私はその作品の名前を忘れてしまった。だがその名前を覚えている人がいるとは私には思えない。

 隆彦はニューヨークの前衛映画界において活動的な一部となっていたが、いつも謎めいて、神秘的な存在としてとどまっていた。彼は前衛映画界の中心的な核を通りながら自分自身の独自な道を追及していたのだった。アメリカの前衛映画の運動の熱情と炎とがインスピレーションを与え、引き付けはしたが、彼が日本人に生れたというこが、映画におけるミニマリストとコンセプチュアルの可能性を妥協せずに追及していくのに決定的に働いていた。彼は誰よりも深く、映画をこの方面において追及している。アメリカで行われるこの最初の完全な回顧展において、飯村の全作品を振り返ることは、芸術としての映画の発展と楽しみに関わる全ての人々に重要な機会となるだろう。top

訳注
1. スタン・ブラッケイジ作 1962年
2. ケネス・アンガー作   1963年
3. ロン・ライス作     1964年
4. ジャック・スミス作   1963年

("飯村隆彦、フィルムとビデオ", アンソロジー・フィルム・アーカイブス, 1990)