飯村隆彦:ビデオと記号論(12月3日)

フレッド・アンダーソン


飯村隆彦の12月3日、ルンド大学における上映会とセミナーに関する最終報告:

イントロダクション:

 飯村隆彦の1960年代と1970年代のニューヨークにおける活動のコンテキストは、東洋文化や東洋思想の影響を受けた、西洋のミニマリズムとコンセプチュアリズムである。これらの文化情況や文化圏では、様々な感情主義や表現主義に対する反動から、瞑想と反復の訓練によって自己のアイデンティティや、自我を忘却するという東洋原理がそのインスピレーションの大きな源泉になっていた。マレーヴィチに顕著な、初期のロシア・アヴァンギャルドへの新たな関心も、このような傾向の一側面であった。アジア出身であり、ヨーロッパのモダニズムへの鋭敏な知識を備えた飯村は、その環境に適応していく機会を十分に持ちながらも、最初から独自の道を歩もうとしたようである。映画評論家スコット・マクドナルドによれば、飯村はすぐに「意味深長で、美しく面白いイメージを収集し創造していく映画制作という方法を」疑うようになった。

 ジャン=グナル・スローリンJan-Gunnar Sjolin教授の招待を受け、フレッド・アンダーソン(博士候補生)の提案のもと、飯村隆彦は、2003年12月1日〜12月4日に私たちの学科を訪れた。12月2日と3日の晩には、飯村氏の1970年頃から現在に至るまでのビデオ/メディア作品が上映され、上映会には、教養課程の学生が多数参加した。上映作品のリストは、飯村氏自身の解説文と共に、本報告書の終わりに掲載した。12月4日には、セミナーが開催され、飯村氏のCD-ROM『オブザーバー/オブザーブドそしてビデオ記号学の他の作品』で取り上げられた、記号の問題が議論された。議論が一般的な結論を目的としていなかったとは言え、以下のようには要約できるだろう。:

 このCD-ROM作品には、ストーリーボード、解説文と共に11本の短編ビデオ作品シリーズ(無声/音声)が含まれている。このシリーズについて、詳細な議論を行うためには、3つの基本的な問題が最も重要であった。

A)1) 科学的規範としての記号論/記号学と、2)芸術としての記号論的/記号学的表明との差異。

B)映画のモンタージュの基本単位と発話された/書かれた言葉の基本単位の類似性に関する様々な主張の妥当性。

C)映画というメディアと比較される、ビデオというメディアの特異性。

 A)第一の問題は、どのような科学であれ、科学とその科学の対象との基本的な差異、もしくは科学的な働きとその結果との差異である。Jan-がセミナーに関連して述べたように、通常の科学というものは、結果が基本的な働きとは関係なく、別個のものとして理解される活動である。これは、明らかに、CD-ROM『オブザーバー/オブザーブド』の場合とは異なる。飯村氏の解説文は、完璧に理解されるべく、必ず見られ、聞かれなければならない特定な働きの説明だからである。科学的な記号学では、一般的な主張/理論とそのような主張に至る実験的かつ概念的な働きの間に、明らかな違いが生じるが、飯村氏の作品は、より一般的な言語の意味において、記号学的であり、つまり、矛盾や多義性(polysemy)の経験へと導く「記号の論理」を証明するものと見なされるのである。矛盾や多義性という性質を理解するために、視聴覚的なビデオ作品の働きを実際に体験することは、極めて重要なことであり、これは通常、芸術と呼ばれるあらゆるプロジェクトを特徴付けるものである。Jan・Jonsson(博士候補生)が述べた、解説文は芸術作品『オブザーバー/オブザーブド』の一部なのか、もしくは単に二次的なものなのかという質問は、実際、最終的な回答を得るまでには至らなかったが、それと関連して、あのビデオ作品は、解説文がなくても同じ物と言えるのかという質問があがった。すなわち解説文は、ビデオではまだ明確にならない情報を付加しているのか、という事である。

 飯村氏が解説文で作品を説明していることに同意するならば、その結論は、当然ビデオ作品の中で私たちが見たり聞いたりするものから導かれるのか、という議論に至るだろう。これに関しては、かなり意見の相違があるかもしれない。(実際の多くのコンセプテュアル・アートと同様に)『オブザーバー / オブザーブド』全般の「科学的」論調について、フレッド・アンダーソンは、このプロジェクトと、記号論における実験的アプローチとの共通性を示唆した。彼はシステマティックな分析や既存の「テキスト」の分類という記号論と、試験的な状況をつくり出すために、実際の「テキスト」の創造を含む、より実験的な研究としての記号論とを明確に区別することは可能であり、その結果、記号過程(semiosis)や「意味の生成」に関する現象をより専門的に理解することが積極的にできると述べた。しかし、Jan-Gunnar Sjolinが指摘したように、以上のような明確な区別が可能かどうかは一考する必要があるかもしれない。

 B) 第二の問題としては、映画のモンタージュと発話言語の類似性に関して、動いているイメージを、3つもしくは4つにさえ分節化して発話することは、全く不可能ということだった。というのも、映画の形象/現象というものは、仮説上のレベルで、映画の記号に結ばれ、また映画記号は、仮説上の意味論的意味と結びついていくからである。このようにワンショットの映像は、(エイゼイシュテインのモンタージュ理論のように)ひとつの語がひとつの概念を意味し、ひとつの文章は主語、目的語、述語という文法的要素を含むことと比較しうる妥当性を、同じように主張することになるかもしれない。同様の議論を別の形で説明するなら、眠っている猫を見せるショットは、「太った猫が枕の上に横になる」や、「枕の上の猫」もしくは単に「猫」と口頭で話すことに対応しているだろう。

 『オブザーバー / オブザーブド』への飯村氏の解説文に関する議論で一つの鍵となるのは、場面と言語が、言葉や文章を通してだけでなく、いわゆる主語を省略した「目的文」を通して比較できることである。『This is a camera 2(これはカメラ2である)』(CD-ROMシリーズ2作目)の例では、「this is a camera(これはカメラである)」の代わりに、「is a camera(カメラである)」(飯村、1998年 p.33)と言うことができる。これは日本語では普通に見られる現象である。この文脈で、飯村氏は以下のように述べている。「とにかく、ワンショットとして撮影された映像は主語がなく、述語を伴う目的語、目的文のようなものである。」(飯村、1998年 p.35)この主張に対して、座っている男性のショットは、(「男性」という言葉は明らかに主語である)「男が座る」よりはむしろ、「座っている男性」であると言うことは自明のことだろう。その上、述語を伴う「目的文」は、当然、省略された主語を含まなければならない。(さもなければ、述語はいらないだろう)。この発言に対する飯村氏の有力な解釈は、実際に見られるもの全ては、一つの「目的文」に相当するということだろう。すなわち「見られるもの (thing seen)」は、省略された主語とともに「私によって見られるもの(thing seen by me)」に相当する。

 しかし、前述した作品『This is a camera 2(これはカメラ2である)』で起こっていることは、「見る人」(Seer)は人ではなく、もう一台のカメラを「撮影する」カメラであり、それはまた最初のカメラを「撮影する」ということである。言葉の言述と視覚的イメージの構造は次のようになる。「これは(カメラ1のイメージ)”これを”撮影するカメラは、(白い壁のイメージにカット)これを撮影するカメラ(カメラ2のイメージにパン)は”これ”(白い壁のイメージにカット)を撮影する。」など。この省略された構造の結果として、文の主語として指定されたものである「/これ/(this) は撮影するカメラ」であり、次の文「/これ/(this) を撮影するカメラ」の目的語でもある。「これ(this)」は、現在の文の主語であるとともに、次の文の目的語でもあるという(最初の文を除いて)常に曖昧な位置にある。この特別な場合において、主語は「伝達不能」(あるいは括弧に入る)という飯村氏に同意することは正当であろう。しかしこれは、非常に特別な場合なので、ここからは、第三の問題に移ることにしよう。

 C)ビデオ・メディアの特異性について。セミナーで、飯村氏は映画のイメージのなかでは、(ジガ・ヴェルトフがしたように)「myself (自分自身)」ではなく「I (私)」としての自分を映像にすることができると述べた。簡単に言えば、自分自身をフィルムに映すためには、カメラの前に一歩出なければならず、「I (私)」が「yourself あなた自身を」映すという態勢では、鏡を持ってもらわない限り、カメラの後ろにそのまま留まるはできない。ビデオの場合、ショートサーキットビデオのシステムは、鏡としても使えるが、決して鏡と同じものではない。ビデオ画面を画面の付いたカメラで撮影すると、2つの向かい合った鏡とは完全に異なるトンネルのような効果が起る。理由は簡単で、鏡で出来たトンネルを見るためには、鏡の間に頭かカメラを突き出さなければならず、従って自分自身(もしくはカメラ)を見ずにはいられないからである。対照的に、ビデオのトンネル効果では、トンネルだけが存在する。ここで「見られるもの」は、実際には 見ている自分を見ている「ビデオというもの」になるのだ!そして、そのビデオシステムに、他のカメラやモニターが加えられると、実際「I (私)」ではなく「myself (私自身)」を現在時制で「撮影するshot」ことができる。飯村氏が『I see you who is shooting me(私は私を撮影するあなたを見る)』と『I see myself who is shooting you(私はあなたを撮影する私を見る)』のヴァリエーションからなる『I see you/myself(私はあなた/私自身を見る)』(シリーズ9作目)の作品で行ったように。このような言葉とイメージの関係を特徴付ける曖昧さとして、とりわけ興味深い例の一つは『This is a monitor(これはモニター1である)』(シリーズ3作目)である。ここではトンネル効果(カメラーモニターのフィードバック)、スイッチ・オフのモニター(カメラはスイッチ・オン)、「ホワイト・ノイズ」でスイッチ・オンのモニター(カメラはスイッチ・オフ)というイメージと関連して「This is a monitor(これはモニター1である)」が口頭で繰り返される。この言葉は、あらゆるケースで真実であり、様々な側面を持つ。スイッチ・オフのモニターは実際モニターに現れるモニターの画像であったり、(それ自体でモニターに現れる画像である)ホワイト・ノイズのイメージは実際には現れないが、モニターに映し出されたりする。トンネル状に、無数のモニターが見えるが、実際は同じモニターがあるだけなのである。マックス・ライルジェフォース(研究助手、博士)はセミナーで、このような根本的に内向的な関係は、ビデオは自己陶酔的なテクノロジーだとする、ロザリンド・クラウスの影響力のある定義(必ずしも現存作家の実際の意図や精神的状況にあてはまる定義ではない)と関連するのではないかと述べたが、この点に関して、飯村氏は鋭い見解の相違を述べた。なぜなら彼の作品は心理学や心理的分析よりも言語学的、現象学的思考に結びつき、『オブザーバー/オブザーブド』のような作品における全般的なアプローチは、実際には、解釈的というより叙述的だからである。

 補足説明:『オブザーバー/オブザーブド』の基本形であり、ビデオの特異性の多くを要訳する形式は、「1sees 2sees 1(1は1を見ている2を見る)」である。ここで2は、この文の主語と目的語の両方として機能している。実際、互いに見つめ合う二人の人間の場合、両者は見つめられる対象であると同時に主体でもある。つまり、「1sees 2sees1sees 2( 2を見ている1を見ている2を1は見ている)」と言うことができる。すでに言及したように、作品『This is a camera 2(これはカメラ2である) 』では、カメラ1はカメラ2を撮影し、カメラ2はカメラ1を「撮影する」。ここで「this(これ)」という言葉は、白い壁(つまり、まだ「this(これ)」というイメージである空白のイメージ)とカメラを参照する。しかし「is a camera which(カメラである)」を繰り返す代わりに、この発言の構成要素は、「this shoots this (1)shoots this(2)これは、これ(2)を撮影するこれ(1)を撮影する」にうまく還元されていく。映し出されるカメラには番号があり、いずれにせよ明きらかに同一化できるからである。おそらくこの発言の冗長さは、「is a camera which(カメラである)」という孤立したフレーズが「目的文」であるという観察以上に重要なことではないだろうか。その上、『オブザーバー/オブザーブド』のような作品における、より広範な記号論的意味を検証するとき、アイコン性(視覚イメージの類似)や象徴性(発話される言語の構造)の場合に限らず、(意味するもの signifierと意味されるものsignifiedや、現実世界の対象物の間に隣接する関係から)指標性indexicalityにも考慮するべきである。用例:指示代名詞「this(これ)」によって指標的に参照される白い壁の場合、この壁から別の、部屋の中の隣接する地点へのパンだけが「this/is a camera(これ/はカメラ/である)」という最後のフレーズの真実を形成する。これはまた、白い壁のイメージが、ある意味で「this(これ)」(転換子shifterの空白性)という言葉の空白のイメージになっていることを意味する。


参考文献:飯村隆彦「ビデオの記号学」『ラックス・センターにおける飯村隆彦:フィルム、ビデオ、CD-ROM、インスタレーション』(ロンドン:ラックス・センター、1998年)

□飯村隆彦のビデオプログラム(2003年12月2日)「言葉とイメージ」

「言葉とイメージ」を主題にした私の作品群の中から、以下のビデオ作品を選んた(T.I.)

『椅子』1970年、モノクロ、5分
フィルム・プロジェクターで光りを投影された1つの椅子がTVのモニターにその影を映す。影はホワイト・ノイズの音に同期して、明滅する。

『ブリンキング』(部分)1970年、モノクロ、2分、出演:飯村昭子
ネガ/ポジ状に映し出された映像で、女性の目が、瞬きをする。
様々なスピードでテープが早送りされ、水平線が画面上に現れる。このプロセスでは、水平線と同時に音が生じる。

『タイム・トンネル』(部分)1971年、モノクロ、5分
ナレーターがTVモニターに映る数を10から1に数えて読む。そのモニターはビデオの閉回路システム(ビデオとカメラのフィードバック)によって作られるトンネル状のイメージを同時に見せる。

『ダブル・ポートレート』1973-87年、モノクロ、6分、出演:飯村隆彦、飯村昭子
飯村隆彦と飯村昭子が、それぞれ単独で、自分たちの名前を肯定的かつ否定的に同一化しようとする。彼らの音声は、しばしば機械的に変形される。

『アイ・ラブ・ユー』1973-87年、モノクロ、5分、出演:飯村隆彦、飯村昭子
飯村隆彦と飯村昭子が、画面に映る彼らの顔を、正面、側面、背面へと替えながら、
「私はあなたを愛している」「あなたは私を愛している」「彼/彼女はあなたを愛している」などの言葉を声に出して語る。

『これはこれを撮影するカメラである』1982ム95年、モノクロ、5分、出演:飯村隆彦
カメラを持った出演者が、2つの向き合ったカメラとモニターの間を歩き、大きな声で壁に書かれた一文、「これはこれを撮影するカメラである」を読む。そして、モニターの内側と外側にあるカメラを撮影する。

『私があなたを見るようにあなたは私を見る』1990-97年、モノクロ、7分、出演:飯村隆彦
『これはこれを撮影するカメラである』と似たパフォーマンスだが、内容と同様、言葉が異なる。2つのモニターには、「I」と「You」の言葉が、それぞれ単独で映される。出演者は、2つの向き合ったカメラとモニターの間をそれらを撮影せずに歩きながら、壁にある一文「私があなたを見るようにあなたは私を見る」を大きな声で読む。

『あいうえおん六面相』1993年、カラー、7分、出演:飯村隆彦
喜劇と不条理を結合して、私は六つの奇妙な顔を作り、日本語とアルファベットで日本語の母音の視覚的なイメージを動画化した。このコンセプトは、ジャック・デリダの「差延」(Differance)を発展させたもので、空間と運動に置いて、「イメージ」、「文字」、「声」の相違を明らかにする。「あいうえおん」の六つのイメージは、その文字と声において異なり、遅延して、多文化主義の一つの例を作る。(T.I.)

『ジョン・ケージ、パフォームス・ジェイムス・ジョイス』1985年、カラー、15分
ジョン・ケージによる私的なパフォーマンス、彼の「フィネガンズ・ウェイクを通して、5回目の記迩」のパフォーマンスである。それを三つの方法で、読み、唄い、囁いた。(T.I.) テキストは「易のチャンス・オペレー ション(隅然性)を使って、フィネガンズ・ウェイクから取っている。」(ジョン・ケージ)

『間:竜安寺石庭の時/空間』1989年、カラー、16分
竜安寺石庭の映画を制作するに際し、私は「間」を時間と空間の未分化な状態として考え、その不可分な状態を映像的に表現しようとした。対象は動かない石庭であり、すでに数多くの写真と映画の対象になっているが、私はこの「間」という概念を単に現実化するばかりでなく、この映画を見ることで、ある「間」の体験を得ることを考えた。通常の美術教育(紹介)映画のように、テキストの解説を例証とするのではなく映像を見ることが、ひとつの「間」の現実体験となるものである。(T.I.)

2003年 飯村隆彦

□飯村隆彦のメディア・プログラム(2003年12月3日、ルンド)

『あいうえおん六面相-「あ」で始まる言葉のゲーム』1999年、CD-ROM
フレッド・アンダーソンのレビューを参照のこと。

『オブザーバー/オブザーブドとビデオ記号学の他の作品』1999年、CD-ROM
マイク・レゲットのレビューを参照のこと。

『シーイング/ヒアリング/スピーキング』2002年、DVD
フレッド・アンダーソンのレビューを参照のこと。

(田坂博子訳)
(Lunds Universitet Konstvetenskap)

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