ジョン・ケージとの会話

飯村隆彦


 ジョン・ケージに会ったのは、1983年の春、、ニューヨークの彼のスタジオだった。そのころ、私は、ビデオでアーティストのポートレートのシリーズを行っていて、その一人にケージを考えたものだ。
 ケージとはそれ以前に、ニューヨークで、パーティーなどで会ってはいたが、人と一緒に短い会話を交すくらいだから、彼の方は、私のことを覚えてはいなかった。

 ケージは会うといきなり、すでに用意してあったかのように、彼の近く出版される予定の「5回目のフィネガンズ・ウェイク通し書」から、一説を読み上げた。しかも、三通りにわたって。
これはジェームス・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」から「文を含めずに、フレーズと単語とシラブルと文字を、それぞれ異なった頁から引用して易を使ったチャンス・オペレーションによって、制作された」テキストである。

 テキストは、ほとんど解読不可能で、ところどころ、正常な単語もあるが、大部分は新造語で、コンマもピリオドもない。
 ケージは、最初は、「正常に」読み、次に、ヴォーカライズし、最後にささやいた。
いま、ケージの最初の朗読の部分を私のビデオからカタカナにおきかえてみる。

ルフトハンドリングコンサメーション タイニイラディパーミエンティング ハイー ムヒセルフ ゼン パース アースアイウー フランダード イー ウー マイセルフ ス クトメーキング ハメルズ クト ライフス シー トゥ イーストタイム ザ セーション ブル イズ

 このような具合で、読み方には、抑揚はあるものの、ほとんどよどみなく読んだ。
三通りの読み方の中で、歌ったものも、面白いが、私にとってもっとも面白いのは、ささやいたものだった。ケージによれば、それぞれの読み方についても、チャンス・オペレーションによって、おのおのの言葉の長さが決まっている。私の耳にはほとんど、お経のように聞こえたが、何度も聞いているうちに、ケージ特有のふし廻しがあって、心地よいものである。

 ケージは、すでに1942年に、「ジャネット・フェアバンクスのための18のばねのすばらしい未亡人」という曲で、「フィネガンズ・ウェイク通し書」のテクストを使っており、それ以来の関心がある。最初の「フィネガンズ・ウェイク通し書」は1978年に出版されている。これは、テクストを見ていないが、彼の解説によると、メゾスティックスと呼ぶ、一行毎に、JAMES JOYCEの一字毎の単語を選んで作られたものである。それぞれのラインは言語として(文として)、意味を持つ単語から構成されている。
例えば次のフレーズのように。

  Just a whisk
  Of
PitY
 a Cloud
in pEace and silence

(丁度、ひと振りの哀れみ 安らぎと 沈黙のなかのひとつの雲)

 このフレーズの真中に、JOYCEの文字が大文字でタテに読める。このようなメソスティックスの詩を、他の詩作品でも試みているが、今回の五回目の「通し書」では、もはや、文のシンタックスはなく、前述のカタカナで表記したように、ほとんど意味不明の言葉の配列となっている。これはメゾスティックスの方法からのラジカルな離脱といえよう。

 今回のテクストは、一見、未来派の騒音詩のように、文脈を無視した言葉の羅列のように見えるが、実際に、彼の朗読を聞いていると、騒音詩の朗読におけるような騒然としたものではなく、念仏を聞いているような、平和なものである。また騒音詩が文字の大小、字体の変化によって、視覚化したのに対して、ケージのテキストは、通常の散文のように、同一の文字(ときに大文字を含むが)で、並んでいる。

 ケージとは、彼の詩の朗読の後、様々な話題について雑談した。あの有名なサイレンスの作品「4分33秒」から、彼の友人の日本人の音楽家のこと、また映画と音楽における闇と沈黙についてなど、多岐にわたった。ケージは実に、物ごとにこだわらず、ときに自分の云ったことに対して高笑いをして、上機嫌であった。彼は決してポレミストにはならず、人の意見は聞くが、それには直接は答えずに、自分の意見やエピソードを話した。

 「4分33秒」については、すでに多くが紹介され、論じられているが、私にとって興味深かったのは、ニューヨークの郊外、ウッドストックの森の中の劇場で初演したときの様子を聞いたことだった。

 飯村 私は一度も「4分33秒」を見たことも聞いたこともありませんが、私はあなたの行ったことと同時にそのタイトルにも興味をもっています。

 ケージ 「4'・33"」(原題)というタイトルは時間であると同時に、空間でもあります。4という数字の上の小さいダッシュは、分であるとともに、フィートでもあるからです。この作品の本当のことは、非意図のマニフェストであることです。意図からの離脱ということです。
飯村 この作品はどのように作られましたか。
ケージ 私は符号毎に、すなわち短い沈黙毎に作曲しました。「変化の音楽」とまったく同じように作りました。

飯村 演奏のときはどのように長さを決めるのですか。

ケージ ストップ・ウォッチを使います。最初はデビッド・チュードアによって、森の中の劇場で行いました。その時には三つの動きがありました。ひとつは木の間を通る日の音です。二番目は演奏が始まって、すぐに雨が降りだしたので、その音を聞きました。三番目は、人々はもうここには、何の音もでないと分かってきたので、話し出したことです(笑う)。


 ケージは、ここで自ら高笑いをしたが、それは、自ら話していること(おそらく、すでに何度も云っていることに違いない)が、おかしくて笑っている。あたかも、他人の作品であるかのように。

 この引用の最初に発言しているように、ケージの「4分33秒」は、そのネーミングによって私の興味を引いた。彼は、それを空間でもあると喝破してるが、このように、時間の持続そのものを、音楽の内容としていることは、この作品が「無音」(実際にはケージによれば三つの動き=音があった)であることと同時に重要なことである。私はケージに、私の意図を十分に説明できなかったが、このタイトルは、時間の長さをタイトルにすることによって、ケージの作品の中でももっともコンセプチュアルな作品である。何故なら、タイトルは記号であることによって、その作品が演奏されるかどうかにかかわらず、作品の明確なコンセプト(一つの単位としての時間の長さ)を伝えるからである。現に演奏されている作品が、正確に4分33秒であるかどうかはこの場合、問題ではない。観客が、それをひとつの時間の単位として意識することによって、このタイトルは半ば、ということは、作品と等価のものとして、成就されたといいうるものである。言葉(記号)と現実の4分33秒という時間の経験とが、一方はコンセプトとして、他方は時間の持続として両立している。私がケージにいいたかったのも、このことだったが、私の言葉不足もあって、ケージに理解してもらえなかった。ケージと話した会話の中で興味深い話題として、映画と音楽における闇と沈黙の問題がある。これは私の映画における闇の場合を説明して、光と闇が音の知覚についても大きな違いがあることを話したものだ。

飯村 私は映画の仕事をしてきましたが、私の映画では時間が非常に重要な要素となっています。映画における時間の問題は見過ごされてきましたが、私は時間の知覚をもっとはっきり見せたいと思っています。ですから、映画における時間の感覚(インターバル)、タイミング、持続(デュレーション)などを、光と闇、音と沈黙の関係として考えました。視覚的なものと、音の関係は非常に不思議なものです。例えば、闇の中でのサイレンスと光の中でのサイレンスは時間の知覚の上で大変異なっています。

ケージ 私はまた音楽と同じように空間についてはエッチングを行っています。あなたのいう陰と陽の考えを時間と空間の双方わたって行っているわけです。時間は、あなたの行っているビデオにおいても、左から右へ進みます。

飯村 それはどういうことですか。

ケージ 文字どおり、水平的に、行くわけです。しかし実際に見るのは、上から下に垂直的に進みます、非常に不思議なものです。ビデオでは(走査線が)最初、水平に進み、次に垂直に進みます水平的な進行と垂直的な進行が結びついています。

飯村 対角線に進むということですか。

ケージ いやまったく対角線的にということではなく、このように(手で、ビデの走査線のジグザグを描く)進みます。

飯村 映画は単に垂直的です。

ケージ 音楽は単に水平的です。日本の記譜法ではなく、西洋の記譜法ではは左から右に進行します。日本の記譜法では、上から下に垂直的に進むでしょうが。しかし日本の近代音楽ではヨーロッパと同じように、水平的に書いているでしょう。

飯村 私は間隔というものについて、不思議な感じをもっています。例えば、私の映画(「モデルズ」)で、ブッ、ブッという(間隔のある)音と、ぶーという(持続した)音で同じ1秒間を示したとき、その長さの間隔は異なっています。それらの音を光の中と、闇の中で聞いたとき、一秒間の間隔は心理的に違って聞こえます。光と闇とを、音と沈黙による間隔によって実験しています。
 日本には、あなたも御存知のように「間」という考えがありますが、これは時間と空間とを結合した考えです。西洋の考えでは、時間と空間とを切り離して考えますが。

ケージ 私は時間と空間とを切り離すことは出来ませんから、二つの言葉の間にハイフォンを入れています。(笑う)

飯村 私にとって闇というものは、非常に心地よいものです。闇は眠らせることもありますが。ある種の人々には、恐さを与えますが、闇は私には、同時に静けさを与えます。映画は常に闇の中で上映されますから。ある人々は、私の映画について、何も見えないといって不満をいいますが、一つの闇を実験したいと思っています。劇場は丁度、洞窟のようなものです。

ケージ あなたの陰と陽の映画のことですか、光と闇の映画の。

飯村 そうです。でも闇の部分は見えませんが。光のところだけ見えます。あなたはコンサートも、闇の中で行うことが出来ますか。

ケージ エレクトロニック・ミュージックは闇の中で出来るでしょう。しかし、音符を読む場合には光が必要です。私が若いとき、シューンベルクのところで勉強しているときですが、ある日、UCLAでベートーベンの管弦楽曲を演奏中、大きな嵐があって、劇場の電気が消えましたが、演奏者は音符を覚えていましたから、暗闇の中で演奏し、再び電気が灯いたら、演奏者は急いで、演奏し終わった楽譜をめっくっていました(笑う)。とっても、驚くべきことです。みんな演奏家に感激しました。

飯村 あなたの「4分33秒」は闇の中でも演奏できますか。

ケージ ええ、出来るでしょう。

飯村 やったことはありますか。

ケージ いいえ、でもあなたがそういいますから、今度やるかも知れません。(笑う)

 ケージは再びここで高笑いをした。私はケージの率直な答えに驚いて、私も一緒になって笑った。

 ケージとの会話は非常に愉快なもので、彼はよく笑った。会話は彼が例に出しているテレビの走査線のようにジグザグしたものだったが、それでも彼は私が問題にした光と闇の音に対する関係を理解したようにみえた。それは、ケージが最後に、「4分33秒」を闇の中で演奏してみようといったことにもあらわれている。彼はこのアイデアに、特に喜んだようにみえた。(闇の中の「4分33秒」を想像することは楽しいことである。)

 私がここで最初に例に出している映画、「モデルズ」は、まったく何も写っていない真黒のフィルム(クロミ)と、まったく透明なフィルム(スヌケ)だけから出来ている映画で、私はこの「モデルズ」について、このインタビューの始めにケージに説明した。その説明のときに、陰と陽の例を出した。特にそのマーク●から陰と陽が合体した観念であることから、私の映画における光と闇の関係を説明したものである。(ついでに言えば、陰と陽は合体しているばかりではなく、それぞれの半球の中に他方の丸点=白の中の黒丸、黒の中の白丸をもっているから、相互に複合している。さらに丸全体を回転させると=時間の中におくと、そのスピードが増す程、白と黒の区別は見えにくく、両者は合体する)。

 私はここまで書いてから、ケージの1961年に行ったロジャー・レイノルズとのインタビューを読んだ。ケージ光と闇とについて言っている言葉を探して。

「さて、芸術と生とを分離したとすれば、あるいはこういってしまいましょうか、つまり、もしその光に着目し│光は闇よりも善く、闇よりも明るい│、それを〈芸術〉と呼ぶとすれば、‥‥‥人はその明るさだけを手にすることになります。ところが、私達が必要としているのは、闇の周りを手探りすることです。なぜかといえば、(いつでもではないにせよ、少なくともあるとき、殊に、私達にとって生が不確かになったとき)、そこが私達の生きる場となるからです:闇の中、あるいはキリスト教でいわれるように「魂の暗い夜」。〈芸術〉が働くのは、こうした状況の中なのです。そしてそのとき、それは只〈芸術〉であるのではなく、私達の生にとって有用なものとなるでしょう。」

 ケージはここで、芸術と生の比喩として、光と闇をもち出しているが、同時に、それ以上に、闇が〈芸術〉となり、そのような状況の中で芸術と生が分かち難くなることを語っている。ここではキリスト教を引用しているが、この発言の直前で、「易経」の六爻にふれて、「その六爻は、通例、〈芸術〉〔作品が人の心に働きかける杆子=訳者注〕を示すとされているわけです、ここでの〔芸術〕は、ある山の頂で輝く光に譬えられます」と言って、光=芸術の例としている。

 私は六爻については無知なので、ケージの例が正しいものかどうか判断出来ない。しかし一般的にいって、洋の東西を問わず、光=芸術、あるいは芸術=光という信仰はあり、ケージが闇の存在を強調し、その「生にとって有用」生を語ったことに、私はわが意を得た。

 光と闇、音とサイレンスの時間における関係を追求して、私は1970年代に十年間を通していくつかの映画作品を制作した。これらはすべて、一般的にいって、映像(映された像)のない映画で、素材としては黒(クロミ)と白(スヌケ)から出来ている。私にとって時間とは、像の運動ではなく、像を伴わずに、進行する時間を指しているからである。そして、映画における時間の要素として、瞬間、持続、間隔、タイミングなどを、一種の数学的な序列に従って、制作した。ここではその細部を説明することはしないが、私は今回、この文章を書くために、ケージの資料に当たっているうちに、彼がレイノルズとの前述のインタビューで、次のようにはっきりと語っていることを発見した。

レイノルズ 音楽のもっとも重要な要素は何でしょうか。

ケージ 時間という要素です。

 私はこの文をかって読んだことはあったが、忘れていた。忘れようもない明快な宣言であるが、ケージ自身、1970年のダニエル・シャルルとの対談では「かつて、ロジャー・レイノルズと対決した際、作曲家・ロバート・アシュレイが言った言葉を思い出しますね。彼は、音楽とはいづれにしても時間的な行為だといったのです。」(傍点原著者)

 いま、そのレイノルズの発言を訳書で見ると、アシュレイは、たしかにその意味の発言をしているが、それはあくまで、ケージの音楽を普遍して言っている言葉である。(アシュレイはレイノルズのインタビューに同席していた)。
アシュレイ 現代の音楽に、「音楽家達」にあなたが与えた影響は非常に大きなもので、そのために音楽の全メタファーが変わりーーー音楽を定義する上で最も重要なものはまず時間であるということになるーーー、(以下略)

 アシュレイの発言はレイノルズの質問のあとに語られており、したがって、前の引用でレイノルズの質問にケージが答えているように、シャルルとのインタビューでの発言は彼の思い違いといってよい。(引用は訳書によるもので原文の言葉使いは分らない)
 それにしてもこのような重要な発言を、他人の発言と勘違いしてしまうところにケージの面白さ(?)がある。

 話が脇道にそれたが、ケージの音楽のもっとも重要な要素としての時間という発言は、私が1970年代初めに、映画における重要な要素として時間を考え、制作したことから十年早い。私は当時、ケージの発言は知らなかったが、彼の「4分33秒」の作品についてはこのような発言や作品を制作している人はいなかった。

 私の場合、しかし時間の要素を必ずしも「もっとも重要な要素」と考えていたわけではない。映画における時間が、それ自身として認められることを見過ごされてきたことから、イメージとは独立してある時間に着目したわけである。当時の私にとって、それはもっとも関心のあることだったが、それを映画一般に広げてまで、主張したことはなかった。それはケージにとって、音が必ずしも必要な要素ではなかったように、私にとって、イメージは必要な要素ではなかった。むしろイメージは、時間を独立した要素として考える場合には、障害となったものである。しかし、ケージも無音は存在しないといっているように、映画においても、完全な闇は存在しない。

 ケージは、同じレイノルズとのインタビューで、さらに、クリスチャン・ウォルフのアイデアとして「ゼロの時間」を語っている。これののちに、ダニエル・シャルルとのインタビューでは「私達が時間の推移に注意せず、時間を計測しなくなるとき、<ゼロの時間>が現れるのです」と語っている。この<ゼロの時間>という意識は、七〇年代に一連の映画を製作していたときに、私の意識にはなかったもので、今回、インタビューを再読して始めて気がついたものである。私自身、70年代の一連の時間に関する映画で、初期には時間の序列を基礎としながら、次第に、「時間の推移」から離れ、1978年に時間に関する映画の最後の作品である「間」(インターバルス)を作ったときには、今から回想するなら、ケージのいう<ゼロの時間>に近いものが出来たのではないかと思っている。何故なら、この作品はケージのいう「時間の推移」や、「計測」から自由になることの出来た作品だからである。top

(「現代詩手帖」、ジョン・ケージ特集、1985年4月)