スクリーンに持ち込まれた竜安寺

ダニエル・シャルル


 フィルムやCDのおかげで、家でオペラをた居間を離れずに美術館を訪れることが可能になったが、実際の体験にとって代ることはないという条件つきである。こうして資料収集や保存といった実用的な目的で、多くの作品が書き直されたり、再解釈されたりしている。コピーされることが多くなればなるほど、原作の独自性は増す。しかし、コピーが、単なるコピーでなくなると、様相は一変する。リメイクの基盤、あるいはその領域の本質を成しているのは剽窃なのに、<リメーク>が見過ごすことのできない作品になることがあるのだ。だから、モーツァルトのオペラをベルイマンが映画化したり、ビスコンティが『ベニスに死す』の映画化を引き受けたりすることを、われわれはすばらしいことだと思わなければならない。安易な焼き直しに関わらないで済むからである。それでは、竜安寺の「枯山水」の映画化の場合はどうだろう。錬金術師の手にでも委ねなければ、この企画自体がたいへんなリスクを負うことになる。しかし、飯村隆彦のようなすぐれたフィルムービデオ作家の手に託すのであれば、まず安心していられるというものだ。おまけに共同制作者として、映像と同じ波長をもつ詩的言語を生み出せる芸術家と、映像にほとんど沈黙のようなこだまを返すことのできる音楽家が選ばれている。筑波の「カンピドリオ」の建築家、磯崎新と、マース・カニングハム・カンパニーでジョン・ケージの衣鉢を継いだ作曲家、小杉武久である。このような天才たちの手にかかるなら、失望することはまずあるまい。

 ところで、飯村が選んだタイトル『間:竜安寺石庭の時/空間』から分かるように、この映画は、石庭という芸術作品を優先したり、直接対象として扱ったりはしていない。作家自身が解説ノートの中で認めているように、最も意識を集中したのは、石庭自身が示す様相の一つ、芸術作品にはちがいないが、実はそれ以上のものについてだった。<間>である。<間>とは「分離」(同時に「対立」「対面」でもある)であると同時に「間隔」「すきま」「あいだ」でもあって、時間と空間における同じ関係を表す種類の用語を意味する。それは、非常に漠然としたしかも抽象的な概念だ。少なくとも、<間>が無数の事例なり、形態なり、状況にあてはまるように見えるとしたら、それは、門の狭間に日があるという漢字の複合した表微によってうまく説明できるような初歩的な構造による策略のせいである。この構造はまた、[地質学上の]<断層のエッジ>をリンクしうる仲介の手段としての<場>を出現させている。プラトンの『ティメイオス』にある<コーラ>に匹敵するとも言われるこの場を、哲学者西田幾太郎は〈場所〉と名ずけてで研究した。西田は、これに関して多くの分析を行い、最終的には、全てを漏出させている深み、リルケの言う「裂け目」のようなものと考えようとしている。創造力豊かな深みであるこの<場>は、ドイツ語でいうと、 <zwischen>(間)という用語が包含する全てを指し示す。(このようにこの用語は、『哲学への寄与』の中の<In-zwischen>(合いー間)と共にハイデッガーが好んで使った用語であり、<顕れ>としての「V屍it氏v(真理)を示す「時間と空間の働き」と同義語であり、物が精神と<合致>するという<veritas>(真理)の条件である。)そして、すぐれた芸術作品である「ハイデルブルグの旧橋」が、単に既存の二つの岸の結合にとどまらず<一本の河の二つの岸として>存在し成立しているのなら、そこに「顕れるもの」こそ、この作品の「V屍it氏v(真理)の本質である。ただし、そのためには、その「顕れるもの」がこの作品との間に距離を保っていることが条件である。その「顕れ」は、<作品から派生したものでありながら、作品の真実を越え、それをしのぐことになる。>

 <<間>という問題は、既に15年以上も前に飯村隆彦の心を捉えていたようだ。彼は1972年の「Models」シリーズに始まり、1975年から1977年の完全な抽象映画「MA(INTERVALES)」までこの問題に専心している。ただ、この頃の飯村の関心は、ベルグソン的な意味での「持続」であった。つまり、それまで<間>を「シリーズ化する」ために援用してきた厳密な<時間測定>を踏み越える正当性を、ベルグソンの「持続」の中に見出せるものと期待していた。1989年の竜安寺を扱った映画では、飯村隆彦は明らかに古典的なテーマとテクニックに戻っている。といっても、それ以降、時間と同様に空間にも向けられるようになった彼の介入作業、この空間を通して進化する自由も与えられたこの作業は、そこにある種のあいまいさを代償に<間>という伝統的な概念を回復した。そのあいまいさには、この作家独自の手法の巧妙さを考慮した上で、綿密に精査する価値がある&amp;lt;br>
 どのようにしてこのあいまいさに向けあえばよいのか。まず、竜安寺独自の美学や芸術性をそなえたもののうち、(そのような分類が可能ならばの話だが)瞑想(宗教的、哲学的)や<間>に関わるものを識別してみよう。このことについては、この道の権威に尋ねるのが妥当だろう。そこでまず私は、昔から「日本の哲学者の中で最も日本的」とみなされている九鬼周造(1888−1941)に直接あたってみたい。1928年の「Decade of Pontingny」紙にあてた、時間に関する彼の二通の通信があるが、その最初の方は興味深い。

 まず何よりも、「枯山水」とは何か。「形式にのっとった」庭である<書院>(「形式のない」庭の<草庵>ではない)は、「形式にのっとった」構成であるため、私たちを正確に、空庭という「形なき形」に導く。では、なぜ<書院>が空庭なのか。この庭を陳腐な筋書きに従属した「物語的」庭と区別するために。こうした区別によって、われわれは芸術作品の名に値するものたちの深遠な目的と離れ、苦しみや欲望、輪廻の鎖から解放される。

 植物界の秩序に従うと、われわれは季節のサイクルや大体<元の姿にもどる>輪廻を選び取ることになる。その結果、庭を変化の希望のない状態に閉じ込めながら、無限に転生させつずける。逆に、植物を無視し、砂の純粋さを汚す苔を除いてみよう。庭はある種の「魅力」を失うかもしれない。しかし、瞑想に至るためには、多少の遠回りをしてもいいではないか。最大の奇蹟は、すべてを放棄したときに起こる。植物の庭の代りとしての石の庭の役割は、時間がたつにつれて消滅するか見えなくなるだろう完成度の高い永続的な庭の一面を、庭師が創り出した形式的均衡の中に保存することである。

 竜安寺は、この意味で「美学上の」必要性と瞑想志向の狭間で、最も巧妙な妥協点を見出した例と言える。15個の石の配置、その編成の様式化、今にも動き出さんばかりに見える瞬間(と、その形)にそれらを凝結した静かな緊張、その全体が、あちこちに石の頭が突き立つ砂の海の<無限の広がり>を抑制している。ばらばらに配置された石の群の気品のある安定性と、同じく京都の大仙院庭園につながる二つの盛り砂の皮肉な結果を比べてみればあきらかだ。石によって、<間>はさまざまに機会を増幅することができる。この意味で竜安寺は、大仙院が二つの盛り砂だけを残して往年の苔を捨て、味気なく均質化してしまったものに変化を与えている。盛り砂もなく、白砂が敷き詰められてあるだけの妙心寺の方丈の庭(京都、19世紀)も同様である。恐らく、竜安寺の15個の石ほどの強さを、この<場所>に「刻み込んで」はいない。なぜなら、砂の海に刻まれた<間>の刻印(波紋)は、線が描かれるそばから少しずつ「リアルタイム」で消えていくからである。まるで、「山水」の究極の形である「枯山水」が、自虐的に過度の「枯れ」を装おい、文字通り砂をかむように。しかし、竜安寺は、<間>が決まるその点でその場所がぴたっと凝結されている。一つの周期から次の周期へ、一つの「生涯」から次の「生涯」への輪廻は、「不転生」と「転生」との間でつかのまの動きを停める。九鬼周造が説明しているように、時間は意志であり、移行の実行のためにはこの意志の働きが必要であるとすれば、問題は、ある存在から次の存在への移行によって発生する。これこそ、ニーチエが「力の意志」とよび、九鬼がむしろ「力に秘められた意志」と考えるべきだろうと提案したものである。「自分の生命に終止符を打ち、再び生まれ変わることができるだけの力の技、あるいは意志の技」を持っている人の場合は、とりわけ(生死の境をさ迷っている人の場合のように)実際の意志が不明の場合は、当然、<潜在的>意志が必然的に存在しているはずである。言い替えれば、竜安寺の奇蹟は、庭師(たち)がこの庭を設定したこのどっちつかずのあいまいな状態に存在している。芸術作品の評価が、その時代、あるいはその環境独自の美意識の規範に合っているかどうかということだけでなく、その環境でその時に構想された時空間に関わる離脱の度合にもよるのであれば、ーこの場合とくに、転生の場所に向けての解放という仏教観が存在していればー、輪廻の途中として構想されている<間>は、「永遠化」へのいささかの望みもなしに、竜安寺美学そのものとなる。そして、<間>を軸に成立している飯村隆彦のプロジェクトの正当性がはっきりする。

 そして、まさにここで、前述したあいまいさが前面におし出されるように思われる。飯村はあいまいさをそれ以上望めないほど明快に露出してみせる。彼は、これまでに竜安寺をモチーフにして制作された膨大な数の文献や芸術作品に、またまた新たにいくつかのイメージやもう一つの映画をつけ加えようとはしない。前にも述べたように、初めから彼の興味は、<間>を創り出す空間と時間の「不可分な」混じり合いを「映像言語」で表現することにあった。このためには、映画の中で、映画によって、何よりも映画として、<間>を生き、<間>が体験されねばならない。だから、この映画を単なるイラストや文章の説明に貶めないで、逆に映画としての自立と自己展開を原則とすべきだ。

 「間:時/空間. . .」に焦点をあてるタイトルは、まさにこの文字通りである。なぜなら、この場所は竜安寺とされてはいるが、そんなことはどうでもいいことだからだ。この場所の本質は京都にあるのではなく、何よりもまずフィルムにあるからである。支柱となっている物質性(撮影されたフィルム)は、対象の地理的な現実と撮影という歴史的な現実の中間に介在する。だが、空間と時間を失格させはしない。むしろ、この二つをハイフオンやスラッシュでつなぎ、両者が主従の関係にならないようにして、その違いをはっきりさせるような構成になっている。しかし、タイトルにハイフォンが使われていても、映画の内容が<間>であるという程度の前ぶれにすぎない。飯村は、始まりは左端から庭のほぼ全景をカバーする<フレ−ム用ショット>、最後は右端からの<フレーム用ショット>でくくって映画全体をまとめようとした。当然、上映が終了した後に始めて、鏡面の効果が感じられることになる。こうして全体のしめくくりがはっきりする。それは空間と時間の一体化というテーマにつながる。そして、観客は全体にゆきわたる同質の映像の強烈な繰り返しから逃れることができないが、この同質性が強調しているのは、アーテイストのこだわる形式上のスタンスいうよりも(もしそうなら、追求されているものは、一体化であると考えなくてはならない)、むしろ<間のもたらす印象>だけを、ほぼそれだけを<生み出すように設定されたカメラ>が、空間と時間の間を<彷徨うその危うさ>である。

 1900年頃、ヴェニスの大運河に、リュミエールが一台のカメラを持ち込んだ時、ゴンドラの揺れのために起こったカメラの動きのおかげで、深さの正確なスキャンが可能だった。だからすでにこの時点で、空間と時間の一体化をひきおこしていたことになる。飯村隆彦は、コンピューターに制御された規則的なゆっくりとした移動によって、時空の<間>を狩り撮る。このテクニックによって、蓮華座のポーズで座る僧の目の高さに据えられ、レールの上で操作されるカメラの静かな動きが保証される。その結果、配置されたそれぞれの石、石と石の間の空間、砂の海、壁の前の狭い空間や通路、ーそして、壁の内側の一箇所にあるように見える人の形をし影―までもの細部が、カメラによって克明に写し撮られる。

 しかし、この探索は完全に規則的というわけではなく(バリエーションがある)、シュミラークル(擬似的映像)がないわけでもなく(ズームが比率を歪曲する)、何よりも中断されないわけでもない。イメージの中断を利用して、西洋的な方法で言葉が入り込み、突然、画面を独占する。こうして、無声映画に字幕が挿入されるのと同じ方法で、詩の言語が、移動撮影のシークエンスの合間に(導入部分以外に)4回、忍び込む。そのテクストが語るのは、空、そして、空虚との融合についてである。そのテクストを書いた磯崎新(ミケランジェロによってデザインされたカンピドリオ場をラディカルに大胆に変換して、筑波に広場を再構築した建築家である)は、あらかじめ想定した脈絡でなく、内面的な一貫性に従い、挿入されるごとに主題をはっきりさせようと企てる。最も外側の知覚から、彼は読む人を、神秘的とも言える融合へと導く。柔らかいタッチで、長い静寂に包まれ、あるいはたがいに肩を並べて響き合う、すばらしい小杉武久に音もまた、同じ心で聴かなければならない。驚異の音色の創造主である小杉武久は、彼を信頼している飯村の委嘱を受け、<間>への賛歌を彼なりの方法で作品化し、任務を果たした。

 自分の映画について飯村はこう語る。「極端にコンセプチユアルなレベルで」作用する一連の「逆説的な」文章(映画に挿入される磯崎の文章には否定的な言い方や矛盾した言い回しを平気で使われ、そういう形で、「矛盾」という「東洋的」な論理を主張している)と、技術的な主役ともいうべきカメラが捉えた定型的な軌跡の描写(そして再生)をめざす一連の映像を結びつけたらどうかと考えていた、と。ところで、「コンピューター化された」<移動ショット>の原理に基づく技術的条件に従って、地面のやや上で行われるこの「カメラの移動」は、厳密な意味での「見えないもの」をけっして見せはしない。それなのに、16分間の映画の始めから終わりまで、問われつずけているのは<間>とその「否定性」だけだ。「物ではなく、距離が問題なのだ」という磯崎のスローガンにもかかわらず、撮影のレベルで「距離」と「物」が共存するばかりか、「距離」(この映画の主題であり、たえまなく繰り返される)は、時には石、時には砂、時には壁などの「物」でたえずう埋まっている。撮影された物はそれぞれ、フィルムのつなぎ用に何度も繰り返し使われている。結局、この映画の主題(あるいは至高の主題)ーつまり「間」(空、虚無、無、一言で言えば否定的神学のすべて)との出会いを求める観客が行き着く先は、不可能性ということになる。この出会うことの不可能性こそが、この映画の目的(至高の主題)なのだ。こうした<無の否認>が、映画にしなやかさと耐久性、言い替えれば、眩惑という類まれな力を与えている。

 飯村隆彦の作品では、映画だけでなく<マルチメディア>でも、前述した「あいまいさ」が思いきった実験の原動力となっているが、これは、マグリットのつぎの逆説がよく言い表わしている。<見えないものは、視界の外に隠れているのではない。隠れるためには、見えていなければならない>。しかし、このように「存在の神秘」を分析することで、飯村の思考方法を、西洋的な意味での「存在としての存在」の論理に取り込もうとしているわけではない。1928年に九鬼周造男爵が追求した問題を参照しよう。

 「日本では、仏教に加え、封建時代に<武士道>と呼ばれるもう一つの倫理的理想が構築された。率直、勇敢、名誉、慈悲―これらが<武士道>の主要な徳目である。<武士道>は、意志を肯定し、無を否定し、ある意味では、<涅槃>を放棄する。意志にとっての唯一の問題は、その意志の完璧な実現のみである。それゆえに、仏教では至上の悪とされてきた意志による行為の絶えまない反復が、今では至高の善となっている。[…]限りなくよき意志は、完全に実現されることはけっしてなく、永遠に「失望」する運命にあるのだが、それでもまたつねに、意志の実現への努力を新たにしなければならない。[…]恐れず勇敢にこの循環に立ち向かおう。「失望」を明晰に意識しつつ、意志の完全な実現を目指そう。永久の時間、ヘーゲルの言う<悪無限>に生きよう。<悪無限>の中に<真無限>を、「不明確」の中に「無限」を、<終わりなき継続>の中に<永遠>を見つけよう。」

 この感嘆すべき文章は、もっと人に知られるだけの価値がある。この文章は、まさしくシジフォスの通った道を火の文字でなぞったものだ。(私は別なところで、アルベール・カミュが、『シジフォスの神話』についてのエッセイのしめくくり部分を10年後に書き直した時に、九鬼を模倣したと指摘したことがある。ところが、私の知る限りでは、それに気が付いた日本人は一人もいなかった!)。しかし、シジフォスが「幸福」であるとすれば、それは恐らく、彼が「V屍it氏i真実)を消滅させない術を知っている」からであろう…。飯村隆彦には、この意味で、ニーチェ的なものを見ることができると私は思う。よく知られているように、ニーチェは、仏教の中に「弱者のニヒリズム」を見た。九鬼は、結論で、反復する画一的な輪廻特有の「東洋的」な時間から離脱するためのふたつの「方法」を対立させる。それは、超越的で知的な、インドの<涅槃>による<仏教>的解脱と、主観的で意志的な<武士道>による克己である。前者は無次元の<解放>、<永遠の休息>の中でいきるために、あるいは死ぬために、理性によって時間を否定する。後者は、時間を忘れ、真実つまり善と美の、いたましいまでの探究を無限に反復しつずける。一方は、不幸を回避しようとする快楽主義の帰結であり、他方は、倫理的な理想主義の表現であり、ともに絶えず戦い、こうして不幸を幸福に変換しつつ、永遠に自らをうちなる神に捧げようと勇敢にも決意し、休みなく戦い、悪を善に変換する倫理的な理想主義の表現である。

 飯村隆彦が竜安寺をスクリーンに持ち込んだのは、彼が仏教の教義を尊重し、それに深い敬意を払っているからであろう。しかし、(そこにわれわれが注意を促そうとしたあいまいさがあるのだが)、彼は、この世紀にいきているばかりではなく、同時に、内面的な解放の道を探る日本の伝統のうちにもいるという特権にも恵まれている。素材としての場所でなく、フィルムがもたらすこの解放は、(九鬼があきらかにしたように)輪廻という想像的な領域に<武士道>の志気を適用したと解釈できるだけでなく、20世紀の終わりの、われわれの美学の指標をはみ出すような新しい領域の現れを裏付けるものとしても、今では解釈できるだろう。その新しい範疇に関しては、マリオ・コスタが「技術的崇高」(1990年)という名のもとで研究に取り組んでいる。
訳 尾山裕子

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