飯村隆彦のビデオ・アート−「私は飯村隆彦ではない」

カール・ユージン・レフラー

            

A: 私は飯村隆彦である
B: あなたは飯村隆彦である
A: あなたは飯村隆彦である
B: 私は飯村隆彦である
A: あなたは飯村隆彦でない
B: あなたは飯村隆彦でない
A: 私は飯村隆彦でない
B: 私は飯村隆彦でない
(飯村隆彦「ダブル・アイデンティティーズ」、ビデオ・アート、1979年)

「<芸術的>な内容もさることながら、私にとって、<芸術外的>な現実も作品の制作にとって大きなファクターである。それは60年代中期にニューヨークに渡り、(中略)ニューヨークという磁場の上に作品が成立している。作品もまた孤立した現象ではなく、場があって成立するとすれば、わたしは、とりもなおさず、ニューヨークという国際的な観客を相手に制作した。」
(飯村隆彦「映像制作30周年に際して」、『飯村隆彦のメディア・ワールド』展カタログ, 1991年)


「飯村隆彦は、ニューヨークの前衛映画界において活動的な一部となっていたが、いつも謎めいていて、神秘的な存在としてとどまっていた。彼は前衛映画の中心的な核を通りながら自分自身の独自な道を追及していったのだ。(中略)彼は誰よりも深く、映画をこの方面において追及している。」
(ジョナス・メカス『飯村隆彦 FILM AND VIDEO』展まえがき、中村晋平訳、1990年)


 ある人々は、飯村隆彦についてちょうど読んだばかりだが、他の人々は彼について既に知っている。私にとっての出会いは、サンフランシスコの、典型的な霧の深い、1970年代末のある土曜日の午後だった。アートのキャリアの長いことのひとつに有益な点は、時間の同時代性にある。

 私はちょうどビデオ・アートについての幾つかの異なる出版物を読んでいた。そして、自分自身を紹介することに、自分の作品で没頭している飯村隆彦の作品を発見した。それはニューヨークのアート界で自分の存在を宣言するためにやっているわけではないと思うが、その時は、「私は飯村隆彦である。」という自己認識を作品で何度も繰り返しているようだった。

 突然、私の事務所のベルが鳴って、こんな日に私を訪ねて来るのは誰だろうと訝りながら、ドアに向かった。ドアを開くと一人の日本人が「私は飯村隆彦です」と言った。時に、人生は芸術を真似るものだ。その時以来、私は飯村隆彦さんとの関係を楽しんでいる。

 飯村隆彦は普通のアーティストではない。オノ・ヨーコや、坂本龍一と同じように、本質的に国際的な名声のある第一級のアーティストの一人であることは疑いない。日本のように、視覚芸術において熟達した文化的な国にもかかわらず、そのアヴァンギャルドのアーティストに対し、全くと言っていいほどサポートを与えていないとは不思議なことだ。飯村のようなアーティストが観客を見つけるために、世界に飛び出さなければならないとは。

 今日、飯村は、指導的な、主要なマルチ・メディア・アーティストである。彼のキャリアは30年にもあよび、コンセプトに基づく映画作品から、分かりやすいビデオ・レーザ・ディスク作品にある。彼はアーティストのためのアーティストである。疲れることを知らず、飯村は心身ともに、アートとメディアの交流する最先端を維持している。

 私は、1985年に初めて日本を訪れる機械があった。サンフランシスコの近代美術館から「ウェーブ・フォームズ・ニュー・ビデオ・ジャパン」のための作品を集めることを依頼された。これは「東京・形態と精神」という大きな文化的な巡回展の一部で、日本のビデオ・アートを紹介するものだった。これは私にとって、3ヶ月近くにおよぶ日本でのフィールド・ワークとなった。
  
 この時、日本で数多くのビデオ・アーティストを訪問した。もちろん、私は日本で唯一のビデオ・アート・ギャラリーで配給もしているSCANに行き、そこで展覧会のための作品を容易に集めることも出来ただろう。しかし、自分でリサーチをし、ひとつの基準を設け、判断することにより興味があった。
  
 私の最初の目的のひとつは、飯村隆彦を訪問することだった。彼のビデオ作品を見、日本の食事とビールを飲んだ。その時の東京は蒸し暑く、ビールがことのほか美味しかった。

  飯村は自分の作品の歴史をかいつまんで見せてくれた。オノ・ヨーコとジョン・レノンのニューヨークのエバーソン美術館での映画の記録^から見た。これは16ミリ_の フィルムで撮影されてからビデオ・テープに変換されたものだ。このドキュメンタリーに非常に感動したことを覚えている。後にフジテレビの「プラネット・テレビ・アートと音楽」のテストプログラムを作った際、この作品の一部を使わせてもらった。この スクラッチのある、しかし素晴しい映画記録が、衛星を通じて日本全国に放映されるという アイディアが楽しかった。
  
 また他の作品も見た。その間、飯村はずーっと熱心に自分と作品について語り、賢明な参照も行った。彼のユーモアは自分に関してばかりではなく、作品についても非常に明らかで、「ニューヨーク・ホットスプリング」は特筆すべきものだ。まず日本では、温泉は文化にとって本質的なもので、湯船につかるということがひとつのハイ・アートの形式にまで高められている。これをニューヨーク流に翻訳することは、素晴しくもダダ風はジェスチャーなのだ。この場合、温泉とは下水道からマンホールのふたを通して、寒い冬空に噴き上げられるスチーム状のガスであることがわかる。
飯村は笑いながら、ニューヨーク温泉と何度も叫んだものだ。
   
 さらに幾つかの作品を見た。私は特に「ジョン・ケージ・パフォームス・ジェームス・ジョイス」が好きだ。飯村はドキュメンタリーの創造的な方法に対して彼の持っている興味について話してくれた。「ロビーナ・ローズと私」は別の作例である。

 「ダブル・アイデンティティーズ」も見た。この作品を「ウェーブ・フォームス」展のために、もうひとつの作品と同様に選んだ。この作品は特に洞察にあふれ、飯村のセルフ・アイデンティティとコンセプト型の作品の、多分頂点になると考えられる。カラーで撮影去れ、英語で語られ、飯村は再び非常に注意深く、自己発見とアイディンティティの概念的な過程を通して展開している。私は日本で生まれた実験的なアーティストとしての飯村の位置づけの難しさを理解するようになった。モデルもなく、自分自身とその未来についてイメージを作り、想像することの可能性に対決するという、これらの作品を理解するまでになった。
   
 それから彼は最近の作品を見せ、私は日本のパイオニアで制作された「エアーズ・ロック」のレーザー・ディスクについて知った。加えて、アマチュア用のビデオで撮影された外観的なドキュメンタリーの「モメンツ・アット.ザ.ロック」の制作を知った。私はこれらを「ウェーブ・フォームズ」展のために選んで、飯村の初期と最近の作品を代表されることが出来ると思った。
  
  「モメンツ・アット・ザ・ロック」は非常に魅力的で、ビデオ・カメラのセルフ・タイマーを使用するという方法をとっている。したがって、一定のインターバルで、岩へのバス` の旅の一部と、レーザー・ディスクに収録される場面をベータカムで撮影する飯村本人を記録している。映像と音のペースには催眠作用があり、アボリジーのモニュメント自体にとって、何が基本的な「夢の時間」の感覚を創り出す。
  
 「エアーズ・ロック」は飯村のもうひとつの面を照らし出す。一方で彼は、例えばフィルム、ビデオ、インスタレーションなどの、大胆な実験を伴った素材の使用を行う。しかし、ここでは飯村は「クロス・オーバー」の感覚で仕事を始め、主流のメディアをアーティストのもくろみによって攻撃する。レーザー・ディスクを制作して、パイオニアから商業的に配給することは、実験的な映画の世界から全くかけ離れている。それでも飯村は、音楽家のローリー・アンダーソンや、ビデオ・アーティストのジョン.サンボーンのような現在の他のアーティストと同様に、主流のメディアに己の印を残すつもりでいる。アンダーソンとワーナー・ブラザースとの継続的な関係は、多分、今のところもっとも顕著な例である。飯村が「エアーズ・ロック」と共に、「モメンツ・アット・ザ・ロック」の記録を撮ったユーモアは面白く、また相応しいことだと思った。

 数年して、私はフランスのモンベリアール・ビデオ祭のために、「自然に関して」というビデオ・プログラムを組んだ。「ウェーブ・フォームズ」展が約5年のあいだ巡回上映したため、日本のビデオ・アートについての外国での専門家として知られるようになった。再び日本にしばらく滞在して、「ウェーブ・フォームズ」展に含まれたアーティストたちの最近の状況をつかんだ。私たちは歳をとったものの、ビデオ・メディアに対する愛はより深くなった。
   
 「自然に関して」では、日本人の自然や伝統や技術についての感受性を強調した。飯村は、受賞作の「間:竜安寺石庭の時/空間」を完成したばかりの時で、このプログラムにも間に合った。音楽がきわめて衝撃的で、有名なフルクサスの音楽家である小杉武久によって作曲され、演奏されている。飯村によれば、この電子音楽は小杉が2つの石を打ち合うことで奏でられた音の素材に基づいていると説明してくれた。飯村はユーモラスに、これを「日本のロック・ミュージック」だと呼んだ。
   
 今までに私は、もう何年も昔に私の事務所のドアのところで「私は飯村隆彦です」と言った人物との、20年近くの関係を楽しんでいる。
(翻訳:飯村隆彦)top

訳註
^ 「YOKO ONO: THIS IS NOT HERE」,1972年、16ミリ、カラー, 20分
_  原文のスーパ8ミリは誤り
`  原文の汽車や誤り ("飯村隆彦のメディア・ワールド(II)", キリンプラザ大阪、1993)